GDPR

クラウドラボが拓く研究開発の新時代:デジタル化が加速する科学の未来

1. クラウドラボとは何か?―実験室のあり方を再定義する クラウドラボとは、ロボットや自動化装置が配備された中央施設に、研究者がクラウド経由でアクセスし、遠隔から実験を指示・実行できるサービスです。物理的に実験室へ足を運ぶことなく、ウェブブラウザ上で実験計画を立てるだけで、サンプル調製からデータ解析までの一連のプロセスが自動で進められます。 この仕組みは、研究の民主化を大きく前進させます。高価で維持が難しい最先端の機器を、必要な時に必要なだけ利用できるため、小規模な研究機関やスタートアップでも大企業と同じ土俵で研究を進めることが可能になります。また、すべての実験プロセスが標準化・データ化されるため、これまで課題とされてきた「実験の再現性」を飛躍的に高め、科学研究全体の信頼性向上にも貢献します。 2. なぜ今、クラウドラボが注目されるのか?―市場を動かす変化の波 クラウドラボが今、急速に普及している背景には、いくつかの大きな要因があります。 まず、COVID-19パンデミックが社会のデジタル化を加速させたことです。リモートワークが常態化する中で、研究開発も例外ではなく、遠隔から実験を進めたいという需要が500%も急増しました。これにより市場は爆発的に成長し、2024年には世界で40億ドル規模に達し、2030年までには80億ドルを超えるとの予測も出ています。 次に、AIやロボティクスといった関連技術の目覚ましい進化が挙げられます。人間の手を介さず、24時間365日稼働する自動化システムは、実験のスループットを劇的に向上させました。AIは最適な実験計画の立案を支援し、膨大なデータから新たな知見を見つけ出す上で不可欠な存在となっています。 そして何より、その圧倒的なコストパフォーマンスが導入を後押ししています。自前で実験室を構える場合と比較して、総所有コストを77%も削減できるという試算もあり、多くの組織にとって魅力的な選択肢となっているのです。 3. 科学研究の最前線―多様な分野での活用事例 クラウドラボは、すでに様々な分野で具体的な成果を上げています。 創薬やバイオテクノロジーの分野では、開発サイクルの大幅な短縮に貢献しています。例えば、Strateos社やArctoris社が提供するプラットフォームは、ロボットとAIを駆使して新薬候補のスクリーニングを自動化し、開発コストの25%削減と500日以上の期間短縮を実現する可能性を示しています。 材料科学や化学の分野でも、その力は遺憾無く発揮されます。業界のパイオニアである**Emerald Cloud Lab(ECL)**は200種類以上の実験機器へのアクセスを提供し、研究者の生産性を5倍から8倍に向上させました。AIが自律的に9万通りもの材料の組み合わせを試行するなど、人間では到底不可能なスケールでの研究が現実のものとなっています。 4. 世界で進む導入―地域ごとの動向と特徴 クラウドラボの普及は世界的な潮流ですが、地域ごとに特色が見られます。市場を牽引するのは、先進的なインフラと大手製薬企業が集積する北米です。一方、ヨーロッパはEU主導の大型投資を背景に安定成長を続けていますが、厳格なデータ保護規制(GDPR)が独自の課題となっています。 その中で最も高い成長率が期待されているのがアジア太平洋地域です。特に中国とインドでは、既存の古いシステムが少ないため、最新のクラウド技術へ一気に移行できる「リープフロッグ現象」が起きており、市場の拡大を力強く後押ししています。 5. 光と影:導入のメリットと乗り越えるべき課題 クラウドラボは多くのメリットをもたらす一方で、乗り越えるべき課題も存在します。最大の利点は、これまで述べてきたコスト削減、効率化、そして研究機会の平等化にあります。 しかしその反面、機密性の高い研究データを外部のクラウドに預けることへのセキュリティ懸念や、各国の複雑な規制への対応は無視できません。また、既存の実験室の設備やワークフローとの連携、そして何よりも、従来の手法に慣れた研究者の意識改革も、導入を成功させるための重要な鍵となります。 6. 結論:未来の科学を見据えて クラウドラボは、単なる便利なツールではありません。それは、科学研究の方法論そのものを覆す、大きなパラダイムシフトです。未来に向けて、AIが自律的に仮説を立てて検証する「自律科学」が現実となり、デジタルツインやVRといった技術が、さらに高度な仮想実験環境を提供するようになるでしょう。 この歴史的な変革の波に乗り、課題に適切に対処しながらクラウドラボを戦略的に活用していくこと。それこそが、これからの研究開発において競争力を維持し、未来を切り拓くための不可欠な要素となるはずです。…

1. クラウドラボとは何か?―実験室のあり方を再定義する

クラウドラボとは、ロボットや自動化装置が配備された中央施設に、研究者がクラウド経由でアクセスし、遠隔から実験を指示・実行できるサービスです。物理的に実験室へ足を運ぶことなく、ウェブブラウザ上で実験計画を立てるだけで、サンプル調製からデータ解析までの一連のプロセスが自動で進められます。

この仕組みは、研究の民主化を大きく前進させます。高価で維持が難しい最先端の機器を、必要な時に必要なだけ利用できるため、小規模な研究機関やスタートアップでも大企業と同じ土俵で研究を進めることが可能になります。また、すべての実験プロセスが標準化・データ化されるため、これまで課題とされてきた「実験の再現性」を飛躍的に高め、科学研究全体の信頼性向上にも貢献します。

2. なぜ今、クラウドラボが注目されるのか?―市場を動かす変化の波

クラウドラボが今、急速に普及している背景には、いくつかの大きな要因があります。

まず、COVID-19パンデミックが社会のデジタル化を加速させたことです。リモートワークが常態化する中で、研究開発も例外ではなく、遠隔から実験を進めたいという需要が500%も急増しました。これにより市場は爆発的に成長し、2024年には世界で40億ドル規模に達し、2030年までには80億ドルを超えるとの予測も出ています。

次に、AIやロボティクスといった関連技術の目覚ましい進化が挙げられます。人間の手を介さず、24時間365日稼働する自動化システムは、実験のスループットを劇的に向上させました。AIは最適な実験計画の立案を支援し、膨大なデータから新たな知見を見つけ出す上で不可欠な存在となっています。

そして何より、その圧倒的なコストパフォーマンスが導入を後押ししています。自前で実験室を構える場合と比較して、総所有コストを77%も削減できるという試算もあり、多くの組織にとって魅力的な選択肢となっているのです。

3. 科学研究の最前線―多様な分野での活用事例

クラウドラボは、すでに様々な分野で具体的な成果を上げています。

創薬やバイオテクノロジーの分野では、開発サイクルの大幅な短縮に貢献しています。例えば、Strateos社やArctoris社が提供するプラットフォームは、ロボットとAIを駆使して新薬候補のスクリーニングを自動化し、開発コストの25%削減と500日以上の期間短縮を実現する可能性を示しています。

材料科学や化学の分野でも、その力は遺憾無く発揮されます。業界のパイオニアである**Emerald Cloud Lab(ECL)**は200種類以上の実験機器へのアクセスを提供し、研究者の生産性を5倍から8倍に向上させました。AIが自律的に9万通りもの材料の組み合わせを試行するなど、人間では到底不可能なスケールでの研究が現実のものとなっています。

4. 世界で進む導入―地域ごとの動向と特徴

クラウドラボの普及は世界的な潮流ですが、地域ごとに特色が見られます。市場を牽引するのは、先進的なインフラと大手製薬企業が集積する北米です。一方、ヨーロッパはEU主導の大型投資を背景に安定成長を続けていますが、厳格なデータ保護規制(GDPR)が独自の課題となっています。

その中で最も高い成長率が期待されているのがアジア太平洋地域です。特に中国とインドでは、既存の古いシステムが少ないため、最新のクラウド技術へ一気に移行できる「リープフロッグ現象」が起きており、市場の拡大を力強く後押ししています。

5. 光と影:導入のメリットと乗り越えるべき課題

クラウドラボは多くのメリットをもたらす一方で、乗り越えるべき課題も存在します。最大の利点は、これまで述べてきたコスト削減、効率化、そして研究機会の平等化にあります。

しかしその反面、機密性の高い研究データを外部のクラウドに預けることへのセキュリティ懸念や、各国の複雑な規制への対応は無視できません。また、既存の実験室の設備やワークフローとの連携、そして何よりも、従来の手法に慣れた研究者の意識改革も、導入を成功させるための重要な鍵となります。

6. 結論:未来の科学を見据えて

クラウドラボは、単なる便利なツールではありません。それは、科学研究の方法論そのものを覆す、大きなパラダイムシフトです。未来に向けて、AIが自律的に仮説を立てて検証する「自律科学」が現実となり、デジタルツインやVRといった技術が、さらに高度な仮想実験環境を提供するようになるでしょう。

この歴史的な変革の波に乗り、課題に適切に対処しながらクラウドラボを戦略的に活用していくこと。それこそが、これからの研究開発において競争力を維持し、未来を切り拓くための不可欠な要素となるはずです。…
Read More

Be the first to write a comment.

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

GDPR

マルチクラウド戦略に潜む「統治困難性」という罠

もはやクラウドは、現代の企業活動において不可逆的なインフラとなった。AWS(アマゾン ウェブ サービス)、Microsoft Azure、Google Cloud(GCP)の3大プラットフォームが市場の大部分を占める中、世界中の企業がその上でビジネスを構築している。日本においても「脱オンプレミス」は長年のスローガンであり、多くの企業がクラウド移行を推進してきた。オンプレミス時代には数年がかりであった新システムの導入が、クラウド時代には数週間で立ち上がる。この圧倒的な「俊敏性」こそが、クラウドがもたらした最大の価値であった。 しかし、単一のクラウドに全面的に依存すれば、そのサービスで発生した障害、突然の価格改定、あるいはサービス仕様の変更といった影響を、回避する術なく受け入れなければならない。2021年9月に発生したAWS東京リージョン関連のDirect Connect障害では、約6時間にわたり国内の広範なサービスに影響が及んだ。また、同年、Peach Aviationが経験した予約システム障害も、単一のシステム依存のリスクを象徴する出来事であった。開発元が「マルウェア感染」を原因と公表し、復旧までに数日を要したこのトラブルでは、航空券の購入や変更手続きが全面的に停止し、多くの利用者に混乱をもたらした。 こうしたリスクを回避し、また各クラウドの「良いとこ取り」をするために、企業がマルチクラウド戦略を採用するのは合理的な判断である。事実、Flexeraの2024年のレポートによれば、世界の企業の89%がすでにマルチクラウド戦略を採用しているという。しかし、この急速な普及の裏側で、企業側の「統治(ガバナンス)」は全く追いついていないのが実情だ。 アイデンティティとアクセス管理(IAM)、システムの監視、各国のデータ規制への対応、そしてコスト管理。複数のクラウドを組み合わせることは、単なる足し算ではなく、組み合わせの数に応じて複雑性が爆発的に増加することを意味する。マルチクラウドという合理的な選択は、同時に「統治困難性」というパンドラの箱を開けてしまったのである。この深刻な問題はまず、目に見えないインフラ層、すなわちネットワーク構成の迷路から顕在化し始めている。 接続と権限の迷宮:技術的負債化するインフラ マルチクラウド戦略が直面する第一の壁は、ネットワークである。クラウドが一種類であれば、設計は比較的シンプルだ。VPC(AWSの仮想プライベートクラウド)やVNet(Azureの仮想ネットワーク)といった、そのクラウド内部のネットワーク設計に集中すればよかった。しかし、利用するクラウドが二つ、三つと増えた瞬間、考慮すべき接続経路は指数関数的に増加する。 例えば、従来のオンプレミス環境とAWS、Azureを組み合わせて利用するケースを考えてみよう。最低でも「オンプレミスからAWSへ」「オンプレミスからAzureへ」、そして「AWSとAzure間」という3つの主要な接続経路が発生する。さらに、可用性や地域性を考慮してリージョンを跨いだ設計になれば、経路はその倍、さらに倍へと膨れ上がっていく。 問題は経路の数だけではない。マルチクラウド環境では、クラウド間の通信が、各クラウドが定義する仮想ネットワークの境界を必ず跨ぐことになる。これは、同一クラウド内部での通信(いわゆる東西トラフィック)と比較して、遅延や帯域設計上の制約が格段に表面化しやすいことを意味する。オンプレミスとの専用線接続(AWS Direct ConnectやAzure ExpressRouteなど)や、事業者間のピアリングを経由する構成では、各プロバイダーが提供するスループットの上限、SLA(品質保証)の基準、さらには監視・計測の粒度までがバラバラである。 平時には問題なくとも、ピーク時の分析処理や夜間の大規模なバッチ転送などで、突如としてボトルネックが顕在化する。そして、障害が発生した際、この複雑なネットワーク構成が原因特定の遅れに直結する。国内の金融機関でも、北國銀行がAzure上に主要システムを移行する「フルクラウド化」を推進し、さらに次期勘定系システムではAzureとGCPを併用するマルチクラウド方針を掲げるなど、先進的な取り組みが進んでいる。しかし、こうした分野では特に、規制対応や可用性設計における監査可能性の担保が、ネットワークの複雑性を背景に極めて重い課題となっている。 そして、このネットワークという迷路以上に深刻な「最大の落とし穴」と指摘されるのが、IAM(アイデンティティとアクセス管理)である。AWS IAM、Microsoft Entra ID(旧Azure Active Directory)、GCP IAMは、それぞれが異なる思想と仕様に基づいて設計されており、これらを完全に統一されたポリシーで運用することは事実上不可能に近い。 最も頻発し、かつ危険な問題が「幽霊アカウント」の残存である。人事異動、プロジェクトの終了、あるいは外部委託先の契約満了に伴って、本来であれば即座に削除されるべきアカウントが、複雑化した管理の隙間で見落とされてしまう。監査の段階になって初めて、数ヶ月前に退職した社員のアカウントが、依然として重要なデータへのアクセス権を持ったまま放置されていた、といった事態が発覚するケースは珍しくない。 これは単なる管理上の不手際では済まされない。権限が残存したアカウントは、内部不正の温床となるだけでなく、外部からの攻撃者にとって格好の侵入口となり、大規模な情報漏洩を引き起こす致命的なリスクとなる。Flexeraの調査でも、マルチクラウドの普及は進む一方で、セキュリティの統合や運用成熟度は低い水準にとどまっていることが示されている。特に厳格な統制が求められる金融機関において、監査でIAMの統制不備が繰り返し問題視されている現実は、この課題の根深さを物語っている。 データ主権とAI規制:グローバル化が強制するシステムの分断 マルチクラウド化の波は、企業の積極的な戦略選択によってのみ進んでいるわけではない。むしろ、グローバルに事業を展開する企業にとっては、各国のデータ規制が「多国籍マルチクラウド体制」の採用を事実上強制するという側面が強まっている。 EU(欧州連合)の一般データ保護規則(GDPR)は、データの域内保存を絶対的に義務づけてはいないものの、EU域外へのデータ移転には標準契約条項(SCC)の締結など、極めて厳格な要件を課している。一方で、米国のCLOUD Act(海外データ適法利用明確化法)は、米国企業に対して、データが国外に保存されていても米国法に基づきその開示を命じ得る枠組みを定めている。さらに中国では、個人情報保護法(PIPL)やデータセキュリティ法がデータの国外持ち出しを厳しく制限し、複雑な手続きを要求する。日本もまた、2022年の改正個人情報保護法で、越境移転時の透明性確保を義務化するなど、データガバナンスへの要求を強めている。 この結果、グローバル企業は「EU域内のデータはEUリージョンのクラウドへ」「米国のデータは米国クラウドへ」「中国のデータは中国国内のクラウドへ」といった形で、各国の規制(データ主権)に対応するために、意図せずして複雑なマルチクラウド体制を構築せざるを得なくなっている。 もちろん、企業側も手をこまねいているわけではない。Snowflakeのように、AWS、Azure、GCPの3大クラウドすべてに対応したSaaS型データ基盤を活用し、物理的に分断されてしまったデータを論理的に統合・分析しようとする試みは活発だ。しかし、国ごとに異なる規制要件をすべて満たし、コンプライアンスを維持しながら、データを横断的に扱うことは容易ではない。規制とマルチクラウドの複雑性が絡み合った、新たな統治課題がここに浮き彫りになっている。 そして今、この複雑なデータ分断の構造に、生成AIや機械学習という新たなレイヤーが重ねられようとしている。AIの導入において、大規模なモデル学習と、それを活用した推論(サービス提供)を、それぞれ異なるクラウドで実行する試みは、一見すると効率的に映る。学習には潤沢なGPUリソースを持つクラウドを選び、推論は顧客に近いリージョンや低コストなクラウドで実行する、という考え方だ。 だが現実には、この構成が「監査対応」の難易度を劇的に引き上げる。学習データがどのクラウドからどのクラウドへ移動し、どのモデルがどのデータで学習され、その推論結果がどの規制に準拠しているのか。この監査証跡を、複数のクラウドを跨いで一貫性を保ったまま管理することは極めて困難である。製薬大手のノバルティスがAWSやMicrosoftとの協業で段階的なAI導入を進めている事例や、国内の製造業で同様の構成が試みられている動向からも、この「マルチクラウド特有の監査証跡管理」が共通の課題となりつつあることがわかる。加えて、2024年8月に発効したEUのAI法など、データだけでなくAIそのものへの規制が本格化する中で、この統治の困難性は増す一方である。 ブラックボックス化する現場:監視の穴と見えざるコスト 統治困難性がもたらす具体的な帰結は、まず「障害対応の遅延」という形で現場を直撃する。障害が発生した際に最も重要なのは、迅速な原因の特定と切り分けである。しかし、マルチクラウド環境では、この初動が格段に難しくなる。 なぜなら、Amazon CloudWatch、Azure Monitor、Google Cloud Operations Suiteといった各クラウドが標準で提供する監視基盤は、当然ながらそれぞれのクラウドに最適化されており、相互に分断されているからだ。収集されるログの形式、データの粒度、監視のインターフェースはすべて異なる。障害発生の通報を受け、IT担当者が複数の管理コンソールを同時に開き、形式の違うログデータを突き合わせ、相関関係を探る。単一クラウドであれば数分で特定できたはずの原因が、この「監視の分断」によって何時間も見えなくなる。 DatadogやNew Relicといった、マルチクラウドを一元的に監視できるサードパーティーツールが市場を拡大している背景には、まさにこの構造的な課題がある。しかし、ツールを導入したとしても、各クラウドの根本的な仕様の違いや、ネットワークの複雑な経路すべてを完全に可視化できるわけではなく、「監視の穴」が残存するリスクは常につきまとう。 こうした監視や障害対応の困難さは、単なる技術的な課題にとどまらず、やがて経営を圧迫する「見えざるコスト」となって跳ね返ってくる。コスト管理(FinOps)の複雑化である。CPU時間、ストレージ利用料、APIコール回数、そして特に高額になりがちなクラウド間のデータ転送料。これら課金体系はクラウドごとに全く異なり、複雑に絡み合う。 請求書のフォーマットすら統一されていないため、IT部門は毎月、異なる形式の請求書を読み解き、どの部門がどれだけのコストを発生させているのかを把握するだけで膨大な工数を費やすことになる。結果としてコストの最適化は進まず、予算超過が常態化する。HashiCorpが実施した調査では、実に91%の企業がクラウドの無駄な支出を認識していると回答し、さらに64%が「人材不足」を最大の障壁と挙げている。複雑化する運用に対応できるスキルセットを持った人材は圧倒的に不足しており、現場は疲弊している。 Synergy ResearchやOmdiaの調査によれば、クラウドインフラ市場は依然として年間20%を超える高い成長を続けている。この市場全体の拡大は、皮肉なことに、各クラウドの課金体系や監査要件の「差異」を企業組織の内部にさらに深く浸透させ、統治困難性の“母数”そのものを押し広げている。 このマルチクラウドがもたらす統治課題は、すべての産業に共通する一方で、その“顔つき”は業種ごとに異なる形で現れている。 最も厳格な要件が課される金融業界では、決済や市場接続におけるミリ秒単位の低遅延と、24時間365日の高可用性、そして取引記録の完全な監査証跡が同時に求められる。このため、オンプレミスや国内クラウドを主軸にしつつ、AIを用いた不正検知やリスクモデル計算のみを外部クラウドで行うといった二層構造が見られるが、ここでの課題は「速さと証跡」という二律背反の同期である。 製造業では、サプライチェーン全体の最適化がテーマとなる。生産ラインのデータ(OT)はエッジ側で即時処理し、設計や物流のデータ(IT)はクラウドで統合する。この際、ティア1からティアnに至る多数の取引先や外部委託がシステムにアクセスするため、クラウドを跨いだ権限管理の不備がセキュリティ上の重大な弱点となりやすい。 公共セクターでは、日本のガバメントクラウドが示すように、継続性と説明責任が最重要視される。複数のクラウドサービスを前提とした設計が求められるため、システムが特定のクラウドにロックインされない「可搬性」や「監査性」の確保が主要な課題となる。 小売業界では、顧客行動の即時分析と販促の即応性が競争力を決める。レコメンドAIや在庫連携など、業務機能単位で最適なクラウドやSaaSを選ぶため、結果的にマルチクラウド化が進む。ここでは障害発生時に、トランザクションのどの部分がどのクラウド層に起因するのかを追跡できなくなる問題が深刻であり、統合的なサービスレベル目標(SLO)管理が求められる。 また、教育・研究分野では、研究室単位や助成金ごとに利用するクラウドが異なり、事務系システムはMicrosoft

もはやクラウドは、現代の企業活動において不可逆的なインフラとなった。AWS(アマゾン ウェブ サービス)、Microsoft Azure、Google Cloud(GCP)の3大プラットフォームが市場の大部分を占める中、世界中の企業がその上でビジネスを構築している。日本においても「脱オンプレミス」は長年のスローガンであり、多くの企業がクラウド移行を推進してきた。オンプレミス時代には数年がかりであった新システムの導入が、クラウド時代には数週間で立ち上がる。この圧倒的な「俊敏性」こそが、クラウドがもたらした最大の価値であった。

しかし、単一のクラウドに全面的に依存すれば、そのサービスで発生した障害、突然の価格改定、あるいはサービス仕様の変更といった影響を、回避する術なく受け入れなければならない。2021年9月に発生したAWS東京リージョン関連のDirect Connect障害では、約6時間にわたり国内の広範なサービスに影響が及んだ。また、同年、Peach Aviationが経験した予約システム障害も、単一のシステム依存のリスクを象徴する出来事であった。開発元が「マルウェア感染」を原因と公表し、復旧までに数日を要したこのトラブルでは、航空券の購入や変更手続きが全面的に停止し、多くの利用者に混乱をもたらした。

こうしたリスクを回避し、また各クラウドの「良いとこ取り」をするために、企業がマルチクラウド戦略を採用するのは合理的な判断である。事実、Flexeraの2024年のレポートによれば、世界の企業の89%がすでにマルチクラウド戦略を採用しているという。しかし、この急速な普及の裏側で、企業側の「統治(ガバナンス)」は全く追いついていないのが実情だ。

アイデンティティとアクセス管理(IAM)、システムの監視、各国のデータ規制への対応、そしてコスト管理。複数のクラウドを組み合わせることは、単なる足し算ではなく、組み合わせの数に応じて複雑性が爆発的に増加することを意味する。マルチクラウドという合理的な選択は、同時に「統治困難性」というパンドラの箱を開けてしまったのである。この深刻な問題はまず、目に見えないインフラ層、すなわちネットワーク構成の迷路から顕在化し始めている。

接続と権限の迷宮:技術的負債化するインフラ

マルチクラウド戦略が直面する第一の壁は、ネットワークである。クラウドが一種類であれば、設計は比較的シンプルだ。VPC(AWSの仮想プライベートクラウド)やVNet(Azureの仮想ネットワーク)といった、そのクラウド内部のネットワーク設計に集中すればよかった。しかし、利用するクラウドが二つ、三つと増えた瞬間、考慮すべき接続経路は指数関数的に増加する。

例えば、従来のオンプレミス環境とAWS、Azureを組み合わせて利用するケースを考えてみよう。最低でも「オンプレミスからAWSへ」「オンプレミスからAzureへ」、そして「AWSとAzure間」という3つの主要な接続経路が発生する。さらに、可用性や地域性を考慮してリージョンを跨いだ設計になれば、経路はその倍、さらに倍へと膨れ上がっていく。

問題は経路の数だけではない。マルチクラウド環境では、クラウド間の通信が、各クラウドが定義する仮想ネットワークの境界を必ず跨ぐことになる。これは、同一クラウド内部での通信(いわゆる東西トラフィック)と比較して、遅延や帯域設計上の制約が格段に表面化しやすいことを意味する。オンプレミスとの専用線接続(AWS Direct ConnectやAzure ExpressRouteなど)や、事業者間のピアリングを経由する構成では、各プロバイダーが提供するスループットの上限、SLA(品質保証)の基準、さらには監視・計測の粒度までがバラバラである。

平時には問題なくとも、ピーク時の分析処理や夜間の大規模なバッチ転送などで、突如としてボトルネックが顕在化する。そして、障害が発生した際、この複雑なネットワーク構成が原因特定の遅れに直結する。国内の金融機関でも、北國銀行がAzure上に主要システムを移行する「フルクラウド化」を推進し、さらに次期勘定系システムではAzureとGCPを併用するマルチクラウド方針を掲げるなど、先進的な取り組みが進んでいる。しかし、こうした分野では特に、規制対応や可用性設計における監査可能性の担保が、ネットワークの複雑性を背景に極めて重い課題となっている。

そして、このネットワークという迷路以上に深刻な「最大の落とし穴」と指摘されるのが、IAM(アイデンティティとアクセス管理)である。AWS IAM、Microsoft Entra ID(旧Azure Active Directory)、GCP IAMは、それぞれが異なる思想と仕様に基づいて設計されており、これらを完全に統一されたポリシーで運用することは事実上不可能に近い。

最も頻発し、かつ危険な問題が「幽霊アカウント」の残存である。人事異動、プロジェクトの終了、あるいは外部委託先の契約満了に伴って、本来であれば即座に削除されるべきアカウントが、複雑化した管理の隙間で見落とされてしまう。監査の段階になって初めて、数ヶ月前に退職した社員のアカウントが、依然として重要なデータへのアクセス権を持ったまま放置されていた、といった事態が発覚するケースは珍しくない。

これは単なる管理上の不手際では済まされない。権限が残存したアカウントは、内部不正の温床となるだけでなく、外部からの攻撃者にとって格好の侵入口となり、大規模な情報漏洩を引き起こす致命的なリスクとなる。Flexeraの調査でも、マルチクラウドの普及は進む一方で、セキュリティの統合や運用成熟度は低い水準にとどまっていることが示されている。特に厳格な統制が求められる金融機関において、監査でIAMの統制不備が繰り返し問題視されている現実は、この課題の根深さを物語っている。

データ主権とAI規制:グローバル化が強制するシステムの分断

マルチクラウド化の波は、企業の積極的な戦略選択によってのみ進んでいるわけではない。むしろ、グローバルに事業を展開する企業にとっては、各国のデータ規制が「多国籍マルチクラウド体制」の採用を事実上強制するという側面が強まっている。

EU(欧州連合)の一般データ保護規則(GDPR)は、データの域内保存を絶対的に義務づけてはいないものの、EU域外へのデータ移転には標準契約条項(SCC)の締結など、極めて厳格な要件を課している。一方で、米国のCLOUD Act(海外データ適法利用明確化法)は、米国企業に対して、データが国外に保存されていても米国法に基づきその開示を命じ得る枠組みを定めている。さらに中国では、個人情報保護法(PIPL)やデータセキュリティ法がデータの国外持ち出しを厳しく制限し、複雑な手続きを要求する。日本もまた、2022年の改正個人情報保護法で、越境移転時の透明性確保を義務化するなど、データガバナンスへの要求を強めている。

この結果、グローバル企業は「EU域内のデータはEUリージョンのクラウドへ」「米国のデータは米国クラウドへ」「中国のデータは中国国内のクラウドへ」といった形で、各国の規制(データ主権)に対応するために、意図せずして複雑なマルチクラウド体制を構築せざるを得なくなっている。

もちろん、企業側も手をこまねいているわけではない。Snowflakeのように、AWS、Azure、GCPの3大クラウドすべてに対応したSaaS型データ基盤を活用し、物理的に分断されてしまったデータを論理的に統合・分析しようとする試みは活発だ。しかし、国ごとに異なる規制要件をすべて満たし、コンプライアンスを維持しながら、データを横断的に扱うことは容易ではない。規制とマルチクラウドの複雑性が絡み合った、新たな統治課題がここに浮き彫りになっている。

そして今、この複雑なデータ分断の構造に、生成AIや機械学習という新たなレイヤーが重ねられようとしている。AIの導入において、大規模なモデル学習と、それを活用した推論(サービス提供)を、それぞれ異なるクラウドで実行する試みは、一見すると効率的に映る。学習には潤沢なGPUリソースを持つクラウドを選び、推論は顧客に近いリージョンや低コストなクラウドで実行する、という考え方だ。

だが現実には、この構成が「監査対応」の難易度を劇的に引き上げる。学習データがどのクラウドからどのクラウドへ移動し、どのモデルがどのデータで学習され、その推論結果がどの規制に準拠しているのか。この監査証跡を、複数のクラウドを跨いで一貫性を保ったまま管理することは極めて困難である。製薬大手のノバルティスがAWSやMicrosoftとの協業で段階的なAI導入を進めている事例や、国内の製造業で同様の構成が試みられている動向からも、この「マルチクラウド特有の監査証跡管理」が共通の課題となりつつあることがわかる。加えて、2024年8月に発効したEUのAI法など、データだけでなくAIそのものへの規制が本格化する中で、この統治の困難性は増す一方である。

ブラックボックス化する現場:監視の穴と見えざるコスト

統治困難性がもたらす具体的な帰結は、まず「障害対応の遅延」という形で現場を直撃する。障害が発生した際に最も重要なのは、迅速な原因の特定と切り分けである。しかし、マルチクラウド環境では、この初動が格段に難しくなる。

なぜなら、Amazon CloudWatch、Azure Monitor、Google Cloud Operations Suiteといった各クラウドが標準で提供する監視基盤は、当然ながらそれぞれのクラウドに最適化されており、相互に分断されているからだ。収集されるログの形式、データの粒度、監視のインターフェースはすべて異なる。障害発生の通報を受け、IT担当者が複数の管理コンソールを同時に開き、形式の違うログデータを突き合わせ、相関関係を探る。単一クラウドであれば数分で特定できたはずの原因が、この「監視の分断」によって何時間も見えなくなる。

DatadogやNew Relicといった、マルチクラウドを一元的に監視できるサードパーティーツールが市場を拡大している背景には、まさにこの構造的な課題がある。しかし、ツールを導入したとしても、各クラウドの根本的な仕様の違いや、ネットワークの複雑な経路すべてを完全に可視化できるわけではなく、「監視の穴」が残存するリスクは常につきまとう。

こうした監視や障害対応の困難さは、単なる技術的な課題にとどまらず、やがて経営を圧迫する「見えざるコスト」となって跳ね返ってくる。コスト管理(FinOps)の複雑化である。CPU時間、ストレージ利用料、APIコール回数、そして特に高額になりがちなクラウド間のデータ転送料。これら課金体系はクラウドごとに全く異なり、複雑に絡み合う。

請求書のフォーマットすら統一されていないため、IT部門は毎月、異なる形式の請求書を読み解き、どの部門がどれだけのコストを発生させているのかを把握するだけで膨大な工数を費やすことになる。結果としてコストの最適化は進まず、予算超過が常態化する。HashiCorpが実施した調査では、実に91%の企業がクラウドの無駄な支出を認識していると回答し、さらに64%が「人材不足」を最大の障壁と挙げている。複雑化する運用に対応できるスキルセットを持った人材は圧倒的に不足しており、現場は疲弊している。

Synergy ResearchやOmdiaの調査によれば、クラウドインフラ市場は依然として年間20%を超える高い成長を続けている。この市場全体の拡大は、皮肉なことに、各クラウドの課金体系や監査要件の「差異」を企業組織の内部にさらに深く浸透させ、統治困難性の“母数”そのものを押し広げている。

このマルチクラウドがもたらす統治課題は、すべての産業に共通する一方で、その“顔つき”は業種ごとに異なる形で現れている。

最も厳格な要件が課される金融業界では、決済や市場接続におけるミリ秒単位の低遅延と、24時間365日の高可用性、そして取引記録の完全な監査証跡が同時に求められる。このため、オンプレミスや国内クラウドを主軸にしつつ、AIを用いた不正検知やリスクモデル計算のみを外部クラウドで行うといった二層構造が見られるが、ここでの課題は「速さと証跡」という二律背反の同期である。

製造業では、サプライチェーン全体の最適化がテーマとなる。生産ラインのデータ(OT)はエッジ側で即時処理し、設計や物流のデータ(IT)はクラウドで統合する。この際、ティア1からティアnに至る多数の取引先や外部委託がシステムにアクセスするため、クラウドを跨いだ権限管理の不備がセキュリティ上の重大な弱点となりやすい。

公共セクターでは、日本のガバメントクラウドが示すように、継続性と説明責任が最重要視される。複数のクラウドサービスを前提とした設計が求められるため、システムが特定のクラウドにロックインされない「可搬性」や「監査性」の確保が主要な課題となる。

小売業界では、顧客行動の即時分析と販促の即応性が競争力を決める。レコメンドAIや在庫連携など、業務機能単位で最適なクラウドやSaaSを選ぶため、結果的にマルチクラウド化が進む。ここでは障害発生時に、トランザクションのどの部分がどのクラウド層に起因するのかを追跡できなくなる問題が深刻であり、統合的なサービスレベル目標(SLO)管理が求められる。

また、教育・研究分野では、研究室単位や助成金ごとに利用するクラウドが異なり、事務系システムはMicrosoft 365、研究用AIはGCP、論文データ共有はAWSといった「意図せぬマルチクラウド」が常態化しやすい。ここでは、入れ替わりの激しい研究者や学生のアイデンティティをいかにライフサイクル管理するかが、コンプライアンスの鍵を握っている。

金融は規制適合性、製造はサプライチェーンの透明性、公共はデジタル主権。産業ごとに直面する課題は異なっていても、その根底にあるのは「複雑性の統治能力が、そのまま企業の競争力と相関している」という共通の現実である。

マルチクラウドは、リスクを分散し俊敏性を高める「資産」にもなれば、利便性を求めて無秩序に拡張した結果、やがて制御不能な「負債」へと転じる危険もはらんでいる。未来を決めるのは、どの技術を導入したか、ではない。その技術が必然的にもたらす複雑性を、持続的に統治できる組織体制と能力こそが、マルチクラウド時代における企業の真の競争力を左右しつつある。…
Read More

Continue Reading
GDPR

対談:「生成AIのセキュリティガバナンス」──法規制、リスク、そして国際動向

生成AI規制の現在地──国内外の法制度と企業対応 ―― まずは、生成AIに関する法規制の現状について伺います。日本国内ではどのような規制があるのでしょうか。 柴山 AIに関する規制は大きく分けて2つあります。1つはAIを直接対象とした包括的な規制、もう1つは既存の個別法による規制です。前者の代表例としてはEUの「AI Act(エーアイ・アクト)」があります。これはハードロー、つまり法的義務を課す厳格な規制です。一方、アメリカは連邦レベルではAIに対する明確な法規制はなく、むしろ推進の方向です。日本はその中間というか、独自路線を取っています。今年、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」が制定されました。これは事業者への協力義務を課していますが、協力しなかったとしても罰則はありません。つまり、法律はあるが、ソフトローに近い緩やかな義務を課す形です。 ―― 個別法による規制についても教えてください。 柴山 生成AIを使った結果、名誉毀損や著作権侵害等が起きれば、当然ながら既存の法律が適用されます。特に重要なのは「個人情報保護法」と「著作権法」です。これらは生成AIの入力・出力両面でリスク管理の要となります。 ―― 企業が生成AIを導入する際、法的リスクとして特に留意すべき点は何でしょうか。 柴山 まず「入力」の段階では、個人情報や機密情報をAIに渡してよいかが問題になります。秘密保持義務の対象となる情報を入力してしまうと契約違反につながる可能性がありますし、個人データを入力すると、法令違反になるケースがあります。「出力」に関しては、誤情報の生成や著作権侵害が懸念されます。例えば、生成された画像やコードが既存の著作物に酷似していた場合、著作権侵害として損害賠償の対象となるリスクがあります。 ―― 具体的な対応策はありますか。 柴山 まず、信頼できるサービスを選ぶことが重要です。個人情報保護法の観点では、個人データを入力する場合、個人データを提供したとされる場合があり、その場合は原則として本人同意が必要ですが、安全管理措置が講じられている等一定の要件を満たせば、同意不要な場合もあります。利用規約やData Processing Addendum(DPA)と呼ばれるデータ取り扱いの合意書等を確認することが大切です。出力に関しては、著作権的に安全なデータで学習されたモデルを選ぶ、プロンプト(指示文)設計に注意する、特定の著作物を模倣しないなどの工夫が求められます。 ―― データベースの所在によってもリスクは変わりますか。 柴山 はい。国によってデータ保護法制の内容は異なります。例えば、中国にデータが渡ると、現地法により政府に情報提供が義務付けられる可能性があります。DeepSeekの事例では、個人情報保護委員会が注意喚起を行いました(※)。民主主義国とは異なる法体系を持つ国では、特にデータの越境移転に慎重になる必要があります。 (※参考:個人情報保護委員会事務局「DeepSeekに関する情報提供」(令和7年2月3日(令和7年3月5日更新)https://www.ppc.go.jp/news/careful_information/250203_alert_deepseek/) ―― 自社でデータベースを構築することでリスクを回避できますか。 柴山 可能です。コード等が公開されているモデルであれば、自社環境に持ち込んで運用することで、外部へのデータ流出リスクを抑えられます。ただし、クラウド型サービスの方がセキュリティ等の面で優れている場合もあり、データ管理体制を十分に確認したうえで、クラウド型サービスを利用する方が良い場合も多いでしょう。 ―― 海外の規制動向は、日本にどのような影響を与えるでしょうか。 柴山 EUのAI Act は、EU圏でビジネスをする企業には直接適用されます。さらに、グローバルな標準形成にも影響を与えるため、EUで事業を展開していない企業にも間接的な影響があります。アメリカはソフトロー的なアプローチですが、韓国はEUに追随する形でAI基本法を制定しました。中国は独自のハードローを採用していますが、EUとは毛色が異なります。世界的な潮流はまだ定まっていない状況です。 ―― AIガバナンスに関して、国際的な基準との整合性はどう図るべきでしょうか。 柴山 たとえばGDPR(General Data Protection Regulation、EU一般データ保護規則)のように、EUが打ち出す規制は「ブリュッセル効果」と呼ばれ、他国にも影響を与えます。AI Act もその延長線上にあり、日本企業も無視できません。また、投資家がAIガバナンス体制の整備を求めるという動きもありますので、今後、企業にAIガバナンス体制構築を求める動きは加速していくでしょう。 飯田 グローバルに展開する企業は、地域ごとの法的・倫理的要請を無視できません。結果的に、厳しい基準に合わせざるを得ない。緩い基準に合わせると、他地域では受け入れられないという現実があります。 柴山 日本のルールがそのままグローバルスタンダードになることはないでしょう。ただ、著作権法などでは世界に先駆けた規制緩和を行ってきた実績もあります。ルール形成のスピード感では、日本も一定の存在感を示しています。 生成AIとサイバーセキュリティ──漏洩・誤情報・著作権リスクとサイバー攻撃への備え ―― 生成AIにおけるセキュリティリスクについて、飯田さんはいかがでしょうか。 飯田 典型的なリスクは3つあります。1つ目は情報漏洩、2つ目はハルシネーション(誤情報の生成)、3つ目は著作権侵害です。これらはすべて、学習データの質と管理に起因します。 例えば、学習データに個人情報や機密情報が含まれていると、それがアウトプットに現れる可能性があります。企業独自の情報を活用する場合は、閉じた環境でモデルを構築することが望ましいです。 ―― パブリックなサービスを使う場合の注意点は? 飯田 誰でも使えるサービスに企業の機密情報を入力すると、意図せず漏洩するリスクがあります。そのため、パブリックなモデルを使う場合は、入力データの選定に細心の注意を払う必要があります。 ―― AIはサイバー攻撃の新たな標的になる可能性はありますか。 飯田 AIが新たな攻撃対象になるという意味では、確かにリスクは増えています。たとえば、企業が独自に構築したLLM(大規模言語モデル)に対して、外部から不正アクセスを試みる攻撃が発生する可能性もあります。ただし、これはAIに限った話ではなく、従来のサーバーやクラウド環境と同様に、適切なセキュリティ対策を講じていれば、一定の防御は可能です。現実には、サイバー攻撃の被害に遭っている企業は少なくありません。だからこそ、AIを導入するかどうかにかかわらず、DXの進展に伴って情報セキュリティ全体を強化する必要があります。AIだから特別に強化するというよりも、AIを含めた全体の情報資産を守るという視点が重要です。 ―― つまり、AIの導入によって攻撃対象が増えるという見方もできますね。 飯田 そうですね。犯罪者の視点から見れば、AIは新たな「盗みどころ」になる可能性があります。今まで別の経路から盗まなければならなかった情報が、AIの学習データや出力を通じて取得できるようになるとすれば、それは攻撃対象の拡大です。ただ、この議論はクラウドが普及した時期の議論と非常に似ています。クラウド導入時も「外部にデータを預けるのは危険だ」という声がありましたが、今では多くの企業がクラウドを活用しています。AIも同様で、リスクはあるが、適切な対策を講じれば十分に活用できる技術です。 社内ガバナンスの設計──責任体制・アクセス制御・教育 ―― 生成AIの導入・運用において、企業内での責任分担はどう整理すべきでしょうか。 飯田 AIは法務・人事・技術など多岐にわたる領域に関わるため、1部門で完結するのは難しいです。責任者を明確に任命し、窓口となる部門を設けて、他部門と連携する体制が現実的です。 ―― 日本企業では「サイロ化」が課題になりがちですが、どう対応すべきでしょうか。 飯田 「Chief AI Officer(CAIO)」のような横断的な責任者を設け、その人に権限を与えることで、部門間の連携を促進できます。デジタル庁の「行政の進化と革新のための生成AIの調達・利活用に係るガイドライン」も参考になります。各府庁にCAIOを置き、リスク評価シートを用いてAIの導入判断を行い、所管のデジタル庁の相談窓口に相談がいくようになっています。また、有識者による助言体制も整えています。これを企業に応用することで、実効性のあるガバナンスが可能になります。 ―― AIモデルの学習において、機密情報をどのように扱うべきですか。 飯田 業務効率化を目的とするなら、企業が収集した顧客情報をAIに活用する場面は避けられません。ただし、その情報が「学習用データ」として使えるかどうかは、収集時の利用目的と照らし合わせて確認する必要があります。ユーザーに提示した目的と異なる使い方をすれば、法的・倫理的な問題が生じます。例えば、名前やメールアドレス、生年月日などの個人情報を学習に使いたい場合、その情報が「学習目的」で収集されたものであるかを確認する必要があります。また、人事情報──給与や評価など──を使う場合も、部門間での情報共有に制限があるため、アクセスコントロールが不可欠です。 ―― 情報の重要度に応じたラベリングも必要ですね。 飯田 情報の機密性に応じて、どの部門・職責に開示すべきかを定義し、モデルごとにアクセス制限を設ける。すべての情報を1つのモデルに学習させるのではなく、用途や対象者に応じてモデルを分ける工夫が求められます。 ―― 社内で生成AIを導入する際、セキュリティポリシーや制御設計はどうあるべきでしょうか。 飯田 まずは「誰が、どの情報に、どこまでアクセスできるか」を明確にすることが重要です。導入前に、どの部署がどのような目的でAIを使うのか、どんなリスクがあるのかを整理し、それに応じたポリシーで設計する必要があります。 ―― 社内モデルとパブリックモデルの使い分けも重要ですね。 飯田 そうです。社内の機密情報を活用するなら、独自のAIモデルを構築すべきです。一方、一般的な情報収集にはパブリックなサービスを使う。用途に応じたモデル選定とポリシーの明確化が求められます。

生成AI規制の現在地──国内外の法制度と企業対応

―― まずは、生成AIに関する法規制の現状について伺います。日本国内ではどのような規制があるのでしょうか。

柴山 AIに関する規制は大きく分けて2つあります。1つはAIを直接対象とした包括的な規制、もう1つは既存の個別法による規制です。前者の代表例としてはEUの「AI Act(エーアイ・アクト)」があります。これはハードロー、つまり法的義務を課す厳格な規制です。一方、アメリカは連邦レベルではAIに対する明確な法規制はなく、むしろ推進の方向です。日本はその中間というか、独自路線を取っています。今年、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」が制定されました。これは事業者への協力義務を課していますが、協力しなかったとしても罰則はありません。つまり、法律はあるが、ソフトローに近い緩やかな義務を課す形です。

―― 個別法による規制についても教えてください。

柴山 生成AIを使った結果、名誉毀損や著作権侵害等が起きれば、当然ながら既存の法律が適用されます。特に重要なのは「個人情報保護法」と「著作権法」です。これらは生成AIの入力・出力両面でリスク管理の要となります。

―― 企業が生成AIを導入する際、法的リスクとして特に留意すべき点は何でしょうか。

柴山 まず「入力」の段階では、個人情報や機密情報をAIに渡してよいかが問題になります。秘密保持義務の対象となる情報を入力してしまうと契約違反につながる可能性がありますし、個人データを入力すると、法令違反になるケースがあります。「出力」に関しては、誤情報の生成や著作権侵害が懸念されます。例えば、生成された画像やコードが既存の著作物に酷似していた場合、著作権侵害として損害賠償の対象となるリスクがあります。

―― 具体的な対応策はありますか。

柴山 まず、信頼できるサービスを選ぶことが重要です。個人情報保護法の観点では、個人データを入力する場合、個人データを提供したとされる場合があり、その場合は原則として本人同意が必要ですが、安全管理措置が講じられている等一定の要件を満たせば、同意不要な場合もあります。利用規約やData Processing Addendum(DPA)と呼ばれるデータ取り扱いの合意書等を確認することが大切です。出力に関しては、著作権的に安全なデータで学習されたモデルを選ぶ、プロンプト(指示文)設計に注意する、特定の著作物を模倣しないなどの工夫が求められます。

―― データベースの所在によってもリスクは変わりますか。

柴山 はい。国によってデータ保護法制の内容は異なります。例えば、中国にデータが渡ると、現地法により政府に情報提供が義務付けられる可能性があります。DeepSeekの事例では、個人情報保護委員会が注意喚起を行いました(※)。民主主義国とは異なる法体系を持つ国では、特にデータの越境移転に慎重になる必要があります。

(※参考:個人情報保護委員会事務局「DeepSeekに関する情報提供」(令和7年2月3日(令和7年3月5日更新)https://www.ppc.go.jp/news/careful_information/250203_alert_deepseek/)

―― 自社でデータベースを構築することでリスクを回避できますか。

柴山 可能です。コード等が公開されているモデルであれば、自社環境に持ち込んで運用することで、外部へのデータ流出リスクを抑えられます。ただし、クラウド型サービスの方がセキュリティ等の面で優れている場合もあり、データ管理体制を十分に確認したうえで、クラウド型サービスを利用する方が良い場合も多いでしょう。

―― 海外の規制動向は、日本にどのような影響を与えるでしょうか。

柴山 EUのAI Act は、EU圏でビジネスをする企業には直接適用されます。さらに、グローバルな標準形成にも影響を与えるため、EUで事業を展開していない企業にも間接的な影響があります。アメリカはソフトロー的なアプローチですが、韓国はEUに追随する形でAI基本法を制定しました。中国は独自のハードローを採用していますが、EUとは毛色が異なります。世界的な潮流はまだ定まっていない状況です。

―― AIガバナンスに関して、国際的な基準との整合性はどう図るべきでしょうか。

柴山 たとえばGDPR(General Data Protection Regulation、EU一般データ保護規則)のように、EUが打ち出す規制は「ブリュッセル効果」と呼ばれ、他国にも影響を与えます。AI Act もその延長線上にあり、日本企業も無視できません。また、投資家がAIガバナンス体制の整備を求めるという動きもありますので、今後、企業にAIガバナンス体制構築を求める動きは加速していくでしょう。

飯田 グローバルに展開する企業は、地域ごとの法的・倫理的要請を無視できません。結果的に、厳しい基準に合わせざるを得ない。緩い基準に合わせると、他地域では受け入れられないという現実があります。

柴山 日本のルールがそのままグローバルスタンダードになることはないでしょう。ただ、著作権法などでは世界に先駆けた規制緩和を行ってきた実績もあります。ルール形成のスピード感では、日本も一定の存在感を示しています。

生成AIとサイバーセキュリティ──漏洩・誤情報・著作権リスクとサイバー攻撃への備え

―― 生成AIにおけるセキュリティリスクについて、飯田さんはいかがでしょうか。

飯田 典型的なリスクは3つあります。1つ目は情報漏洩、2つ目はハルシネーション(誤情報の生成)、3つ目は著作権侵害です。これらはすべて、学習データの質と管理に起因します。

例えば、学習データに個人情報や機密情報が含まれていると、それがアウトプットに現れる可能性があります。企業独自の情報を活用する場合は、閉じた環境でモデルを構築することが望ましいです。

―― パブリックなサービスを使う場合の注意点は?

飯田 誰でも使えるサービスに企業の機密情報を入力すると、意図せず漏洩するリスクがあります。そのため、パブリックなモデルを使う場合は、入力データの選定に細心の注意を払う必要があります。

―― AIはサイバー攻撃の新たな標的になる可能性はありますか。

飯田 AIが新たな攻撃対象になるという意味では、確かにリスクは増えています。たとえば、企業が独自に構築したLLM(大規模言語モデル)に対して、外部から不正アクセスを試みる攻撃が発生する可能性もあります。ただし、これはAIに限った話ではなく、従来のサーバーやクラウド環境と同様に、適切なセキュリティ対策を講じていれば、一定の防御は可能です。現実には、サイバー攻撃の被害に遭っている企業は少なくありません。だからこそ、AIを導入するかどうかにかかわらず、DXの進展に伴って情報セキュリティ全体を強化する必要があります。AIだから特別に強化するというよりも、AIを含めた全体の情報資産を守るという視点が重要です。

―― つまり、AIの導入によって攻撃対象が増えるという見方もできますね。

飯田 そうですね。犯罪者の視点から見れば、AIは新たな「盗みどころ」になる可能性があります。今まで別の経路から盗まなければならなかった情報が、AIの学習データや出力を通じて取得できるようになるとすれば、それは攻撃対象の拡大です。ただ、この議論はクラウドが普及した時期の議論と非常に似ています。クラウド導入時も「外部にデータを預けるのは危険だ」という声がありましたが、今では多くの企業がクラウドを活用しています。AIも同様で、リスクはあるが、適切な対策を講じれば十分に活用できる技術です。

社内ガバナンスの設計──責任体制・アクセス制御・教育

―― 生成AIの導入・運用において、企業内での責任分担はどう整理すべきでしょうか。

飯田 AIは法務・人事・技術など多岐にわたる領域に関わるため、1部門で完結するのは難しいです。責任者を明確に任命し、窓口となる部門を設けて、他部門と連携する体制が現実的です。

―― 日本企業では「サイロ化」が課題になりがちですが、どう対応すべきでしょうか。

飯田 「Chief AI Officer(CAIO)」のような横断的な責任者を設け、その人に権限を与えることで、部門間の連携を促進できます。デジタル庁の「行政の進化と革新のための生成AIの調達・利活用に係るガイドライン」も参考になります。各府庁にCAIOを置き、リスク評価シートを用いてAIの導入判断を行い、所管のデジタル庁の相談窓口に相談がいくようになっています。また、有識者による助言体制も整えています。これを企業に応用することで、実効性のあるガバナンスが可能になります。

―― AIモデルの学習において、機密情報をどのように扱うべきですか。

飯田 業務効率化を目的とするなら、企業が収集した顧客情報をAIに活用する場面は避けられません。ただし、その情報が「学習用データ」として使えるかどうかは、収集時の利用目的と照らし合わせて確認する必要があります。ユーザーに提示した目的と異なる使い方をすれば、法的・倫理的な問題が生じます。例えば、名前やメールアドレス、生年月日などの個人情報を学習に使いたい場合、その情報が「学習目的」で収集されたものであるかを確認する必要があります。また、人事情報──給与や評価など──を使う場合も、部門間での情報共有に制限があるため、アクセスコントロールが不可欠です。

―― 情報の重要度に応じたラベリングも必要ですね。

飯田 情報の機密性に応じて、どの部門・職責に開示すべきかを定義し、モデルごとにアクセス制限を設ける。すべての情報を1つのモデルに学習させるのではなく、用途や対象者に応じてモデルを分ける工夫が求められます。

―― 社内で生成AIを導入する際、セキュリティポリシーや制御設計はどうあるべきでしょうか。

飯田 まずは「誰が、どの情報に、どこまでアクセスできるか」を明確にすることが重要です。導入前に、どの部署がどのような目的でAIを使うのか、どんなリスクがあるのかを整理し、それに応じたポリシーで設計する必要があります。

―― 社内モデルとパブリックモデルの使い分けも重要ですね。

飯田 そうです。社内の機密情報を活用するなら、独自のAIモデルを構築すべきです。一方、一般的な情報収集にはパブリックなサービスを使う。用途に応じたモデル選定とポリシーの明確化が求められます。

ベンダーとの契約──契約と交渉のポイント

―― 生成AIを自社に導入する場合、ベンダーとの契約上どんな点に注意すべきでしょうか。

柴山 生成AIを自社に導入する場合、SaaSのようなパッケージ型のサービスを導入する場合とベンダーに開発を委託して自社向けにカスタマイズする場合の2種類があります。前者は利用規約が固定されているため、規約を読み込んで、どこまでの情報を入力できるかを判断する必要があります。後者は交渉の余地があるため、権利の帰属、利用条件、データの取り扱いなどを明確にすることが重要です。

―― 自社のノウハウが漏れるリスクもありますね。

柴山 はい。渡したデータが別製品の開発等に転用される可能性もあるため、契約で利用範囲を明確に定めておくことが重要です。たとえば、開発委託の場合、提供したデータを使って作られたAIモデルが、他社サービスへの展開にあたっても利用されるような事態を避けるために、成果物の利用条件や権利帰属を契約書でしっかり規定しておく必要があります。

―― 実際に、データ提供した企業が自社の情報にアクセスできなくなるケースもあると聞きます。

柴山 契約時に利用条件を明確にしていなければ、いわゆるベンダーロックインと呼ばれる状況が起こることもあり得ます。AI開発においては、データの取り扱いと成果物の利用条件をセットで考えることが不可欠です。

―― 社内でAIを利用する場合には、社内のルールを決めておくことも重要でしょうか。

柴山 はい。ここまでに述べたような法的リスクに対応するには、最低限のルールを定めておくことが必要です。

飯田 加えて、ルールを策定しただけでは不十分で、それをどう社内に浸透させるかが課題になります。ポリシーを作っても、従業員がその内容を理解し、実践できなければ意味がありません。教育と技術的な補完策の両面から、セキュリティガバナンスを構築する必要があります。

柴山 法的な観点からも、教育は非常に重要です。たとえば「個人情報を入力しないでください」と言われても、何が個人情報かを理解していないと、誤って入力してしまうことがあります。自社の業務に即した具体例を示しながら、動画などで教育コンテンツを提供するのが有効です。

技術の進化と制度の遅れ──「前例なき意思決定」が問われる時代へ

―― 技術の進化に法制度が追いつかない場合、企業にはどのような対応が求められるのでしょうか。

柴山 リスクベースアプローチ(リスクの重要度に応じて対策を講じる考え方)が鍵です。法律が想定しておらず、前例もない状況で、自社でリスク評価をして意思決定できるかどうか。日本企業は前例を探しがちですが、今後は「前例がないからやらない」ではなく、「自社で判断する」力が問われます。

飯田 業界団体で「ここまではできる」という標準を作り、その上で企業が個別判断するという構造が理想です。そうすれば、現場の担当者にリスクを押し付けることなく、組織として意思決定ができます。

柴山 CIOやCAIOのような責任者を明確にし、ルールを定めることで、現場が安心して使える環境を整えることができます。

飯田 日本は労働人口の減少という構造的課題を抱えています。AIはその補完手段として不可欠な技術です。導入企業は今後さらに増えるでしょうし、一度使えば手放せなくなるほど便利です。

柴山 ガバナンスは抑止のためではなく、安全に、そしてポジティブに活用するための仕組みです。しり込みせず、前向きに使っていただきたいです。

飯田 セキュリティやガバナンスは「使わせないため」ではなく、「安心して使ってもらうため」に設計するものです。その前提が共有されれば、AI活用はより健全に広がっていくはずです。…
Read More

Continue Reading
GDPR

サードパーティークッキーは本当に「終わる」のか?Chrome方針転換が示す現実

なぜサードパーティークッキーは「終わる」と言われ続けたのか 長年にわたり、デジタル広告とウェブサイトの分析は「サードパーティークッキー(Third-Party Cookie、以下3PC)」という技術に大きく依存してきました。サードパーティークッキーとは、訪問しているサイトとは異なるドメイン(第三者)が発行する小さなデータファイルのことです。これにより、ユーザーがどのサイトを訪れたかを横断的に追跡することが可能になり、広告主は個人の興味関心に基づいたターゲティング広告を配信したり、広告が最終的な購入(コンバージョン)にどれだけ貢献したかを計測したりすることができました。 しかし、この仕組みには大きな問題がありました。それは、ユーザー自身が「いつ、誰に、どこまで追跡されているのか」を正確に把握し、コントロールすることが極めて困難だった点です。このプライバシーへの懸念が世界的に高まる中で、3PCは「技術」と「規制」という二重の圧力にさらされることになります。 技術的な圧力の先陣を切ったのは、Appleです。同社のブラウザであるSafariは、2017年に「Intelligent Tracking Prevention(ITP)」と呼ばれる追跡防止機能を導入しました。ITPは年々その機能を進化させ、ついに2020年3月、すべてのサードパーティークッキーを例外なく、デフォルト(初期設定)でブロックするという非常に強力な措置に踏み切りました。これはウェブ業界に大きな衝撃を与え、プライバシー保護の潮流を決定づける出来事となりました。 この動きに追随したのが、MozillaのFirefoxです。Firefoxも2019年以降、「Enhanced Tracking Protection(ETP)」を標準で有効化しました。これにより、追跡目的と見なされるサードパーティ由来のクッキーやスクリプトが広く遮断されるようになりました。2025年現在も、この設定はデフォルトで機能しており、ユーザーは必要に応じてサイトごとに保護レベルを調整できますが、基本的には「追跡はブロックする」という姿勢が貫かれています。 こうしたブラウザ側による技術的な制限に加え、法規制の圧力も強まりました。特に欧州連合(EU)の「GDPR(一般データ保護規則)」や「ePrivacy指令」は、クッキーの使用に対して厳格なルールを課しました。企業は、クッキーを使用する目的を明示し、ユーザーから明確な「同意」を得なければならなくなったのです。どの目的でデータを利用するかをユーザー自身が選択できる必要があり、同意なしに3PCを利用することは法的なリスクを伴うようになりました。日本や米国の各州でも、同様の個人情報保護法制が整備されつつあります。 結果として、技術的にもはや届かないユーザー(Safari、Firefox利用者)が増え、法規制的にも利用のハードル(同意取得)が上がったことで、3PCに依存した従来の広告・解析の手法は、持続可能性の低いリスクの高い選択肢へと変わっていきました。この流れの中で、業界全体が「同意の確実な取得」「代替技術の模索」、そして何より「自社で収集するファーストパーティデータの重視」へと、戦略的なシフトを余儀なくされてきたのです。 2025年、Chromeの「Uターン」は何を変えたのか SafariやFirefoxが厳格なブロックに踏み切る一方、世界最大のシェアを持つGoogle Chromeの動向は、常に業界の最大の関心事でした。Chromeは、プライバシー保護と広告エコシステムの維持を両立させるという難しい課題に対し、「プライバシーサンドボックス(Privacy Sandbox)」構想を掲げていました。これは、3PCを廃止する代わりに、個人の特定を防ぎつつ広告配信や効果測定を可能にする新しい技術群(API)を提供するという壮大なプロジェクトです。 その計画に基づき、Googleは2024年1月、ついに全Chromeユーザーの1%を対象に3PCをデフォルトで制限する大規模なテストを開始しました。これは、競合ブラウザの動きにようやく追随する重要な一歩であり、2024年後半にかけて段階的に廃止対象を拡大していく予定であると、当時は想定されていました。 しかし、この計画は大きな転換点を迎えます。プライバシーサンドボックスの仕組みが、結果的にGoogleの広告事業における優位性をさらに高めるのではないかという競争上の懸念が、特に英国の競争・市場庁(CMA)から継続的に示されていました。CMAは、Googleが3PCを廃止するプロセスを厳しく監督することを表明し、両者は2022年にコミットメント(誓約)を結んでいました。 この複雑な状況下で、Googleは2025年4月、市場を驚かせる方針転換を発表します。それは、「3PCに関する新たなスタンドアロンの選択プロンプト(3PCをブロックするかどうかをユーザーに尋ねる独立した画面)を導入しない」こと、そして「既存のChrome設定内でユーザーに選択を委ねる」というものでした。これは、事実上、Chromeの一般ブラウジングモードにおける3PCの全面的な廃止計画を「見送る」という判断であり、主要メディアはこれを“Uターン”と報じました。 このGoogleの転換は、即座に規制当局の対応にも変化をもたらしました。CMAは2025年6月、Googleが3PCの一般的ブロック計画自体を改めたことで、競争上の懸念が後退したと判断。Googleが2022年に結んだコミットメントは「もはや必要ない」とする見解を示し、その解除に向けた意見募集を開始しました。そして同年10月、CMAはコミットメント解除の決定文書を公表し、約4年にわたる異例の監督体制に終止符が打たれました。 さらに決定打となったのが、同じく2025年10月にGoogleが更新したプライバシーサンドボックスの「今後の計画」です。Topics(興味関心ターゲティング)、Protected Audience(リターゲティング)、Attribution Reporting(効果測定)といった、広告の中核を担うと目されていた主要なAPI群について、「低い採用度(広範な採用に至らなかった)」を理由に、順次リタイア(廃止)することが明言されたのです。 一方で、CHIPS(パーティション化クッキー)、FedCM(ID連携管理)、Private State Tokens(不正対策)といった技術は継続されることも併せて発表されました。これは、Googleが「3PCの即時全廃はしない」と同時に、「3PCに代わる独自規格の広告基盤を強行することもない」という姿勢を明確にしたことを意味します。舵は、クッキーとID連携の扱いを、よりプライバシーに配慮した形へ「整える」方向へと切られたのです。 なお、Chromeのシークレット(Incognito)モードにおいては、従来どおり3PCは既定でブロックされる方針も再確認されています。一般モードでの全廃は撤回されましたが、「追跡抑制を強化する」という大方針そのものは維持されていると解釈すべきでしょう。 「ポストサードパーティークッキー」の現実 2025年の一連の出来事を経て、私たちはどのような現実に直面しているのでしょうか。「Chromeで3PCが全廃されないなら、元に戻るのか」と考えるのは、最も危険な誤解です。理由は大きく三つあります。 第一に、Chrome以外のブラウザ、すなわちSafariとFirefoxでは、すでに厳格な3PCブロッキングが常態化しています。これは、市場の一定割合のオーディエンスには、もはや3PCを用いた追跡やターゲティングが技術的に届かないことを意味します。この現実は2025年を経ても一切変わっていません。 第二に、Google自身が、プライバシーサンドボックスの中核的な広告API(Topicsなど)から撤退したという事実です。これは、「3PCの代わりに、この新しいAPIに乗り換えれば、以前と同じような広告精度が戻ってくる」という単純な移行の道が閉ざされたことを示します。Googleは、広告測定などの標準化を、自社単独ではなく、W3C(World Wide Web Consortium)のような業界横断的な合意形成の場へと差し戻した格好です。 第三に、GDPRに代表される法規制の要請は、後戻りしていません。たとえ技術的に3PCが利用可能であっても、ユーザーからの明確かつ粒度の細かい同意がなければ、法務リスクを抱えることに変わりはありません。 では、企業は具体的に何に取り組むべきなのでしょうか。焦点は、3PCに依存せずとも必要なウェブ体験やビジネス上の目標を達成するための、技術の「複線化」と「安定運用」にあります。 Googleが継続を明言した技術群は、そのための「足回り」を整えるものです。たとえば、CHIPS(Cookies Having Independent Partitioned State)は、「Partitioned」属性を付与することで、トップレベルサイトごとにストレージが分離されたサードパーティクッキーを許容する仕組みです。これはクロスサイト追跡には利用できませんが、サイトに埋め込まれたチャットウィジェット、地図、決済機能などが正しく動作するために必要な「状態保持」を、プライバシーリスクを抑えつつ実現します。 ログイン連携に関しては、FedCM(Federated Credential Management)が標準的なフローを提供します。これにより、従来の3PCやリダイレクトに頼ることなく、ブラウザがユーザーの合意を仲介し、安全なID連携(例:GoogleやFacebookでのログイン)を実現できます。UXとプライバシーの両立が図りやすくなります。 また、Private State Tokens(旧称Trust Tokens)は、個人を特定することなく「そのユーザーが信頼できるふるまいをしている証(ボットではない証など)」を暗号学的に伝える技術です。これは広告に限らず、不正アクセスやアビューズ対策といった、サイトの健全性を保つ領域で活用が想定されます。 これらはあくまで機能の「保全」であり、広告ターゲティングの代替ではありません。したがって、マーケティングや分析の実務においては、次のような多角的なアプローチが不可欠です。 まず、同意管理(CMP)のUXとログ設計を徹底的に見直し、ユーザーの信頼を得つつ、法的にクリーンな状態を担保することが大前提となります。次に、計測の軸足をクライアントサイド(ブラウザ)からサーバーサイドへと移し、ブラウザの制限によるデータの欠損や重複に耐えうるID解決の仕組み(ファーストパーティIDの整備)を構築することが急務です。 広告運用面では、リターゲティングのような3PC依存の手法への偏重から脱却し、コンテクスチュアル(文脈)広告、クリエイティブの最適化、あるいはMMM(マーケティング・ミックス・モデリング)やインクリメンタリティ測定といった、統計的なアプローチによる意思決定の比重を高めていく必要があります。 2025年の出来事を総括すると、Chromeは3PCの全面廃止を見送り、CMAの監督も終息し、プライバシーサンドボックスの主要APIから撤退しました。しかし、SafariとFirefoxのブロックは続き、規制の要請も変わりません。Googleは、CHIPSやFedCMといった機能保全技術を残しつつ、広告標準化の議論を業界全体に開きました。 ということで、サードパーティークッキーは、Chromeにおいて「突然消えはしない」ことになりました。しかし、ビジネスがサードパーティークッキーに頼りきりでいられる時代は、規制と競合ブラウザの動向によって、すでに終わっているのです。企業は、「3PCありき」の発想から完全に卒業し、ファーストパーティデータとユーザーの信頼を中核に据えた、より強靭なデジタル戦略を構築していく必要があります。…

なぜサードパーティークッキーは「終わる」と言われ続けたのか

長年にわたり、デジタル広告とウェブサイトの分析は「サードパーティークッキー(Third-Party Cookie、以下3PC)」という技術に大きく依存してきました。サードパーティークッキーとは、訪問しているサイトとは異なるドメイン(第三者)が発行する小さなデータファイルのことです。これにより、ユーザーがどのサイトを訪れたかを横断的に追跡することが可能になり、広告主は個人の興味関心に基づいたターゲティング広告を配信したり、広告が最終的な購入(コンバージョン)にどれだけ貢献したかを計測したりすることができました。

しかし、この仕組みには大きな問題がありました。それは、ユーザー自身が「いつ、誰に、どこまで追跡されているのか」を正確に把握し、コントロールすることが極めて困難だった点です。このプライバシーへの懸念が世界的に高まる中で、3PCは「技術」と「規制」という二重の圧力にさらされることになります。

技術的な圧力の先陣を切ったのは、Appleです。同社のブラウザであるSafariは、2017年に「Intelligent Tracking Prevention(ITP)」と呼ばれる追跡防止機能を導入しました。ITPは年々その機能を進化させ、ついに2020年3月、すべてのサードパーティークッキーを例外なく、デフォルト(初期設定)でブロックするという非常に強力な措置に踏み切りました。これはウェブ業界に大きな衝撃を与え、プライバシー保護の潮流を決定づける出来事となりました。

この動きに追随したのが、MozillaのFirefoxです。Firefoxも2019年以降、「Enhanced Tracking Protection(ETP)」を標準で有効化しました。これにより、追跡目的と見なされるサードパーティ由来のクッキーやスクリプトが広く遮断されるようになりました。2025年現在も、この設定はデフォルトで機能しており、ユーザーは必要に応じてサイトごとに保護レベルを調整できますが、基本的には「追跡はブロックする」という姿勢が貫かれています。

こうしたブラウザ側による技術的な制限に加え、法規制の圧力も強まりました。特に欧州連合(EU)の「GDPR(一般データ保護規則)」や「ePrivacy指令」は、クッキーの使用に対して厳格なルールを課しました。企業は、クッキーを使用する目的を明示し、ユーザーから明確な「同意」を得なければならなくなったのです。どの目的でデータを利用するかをユーザー自身が選択できる必要があり、同意なしに3PCを利用することは法的なリスクを伴うようになりました。日本や米国の各州でも、同様の個人情報保護法制が整備されつつあります。

結果として、技術的にもはや届かないユーザー(Safari、Firefox利用者)が増え、法規制的にも利用のハードル(同意取得)が上がったことで、3PCに依存した従来の広告・解析の手法は、持続可能性の低いリスクの高い選択肢へと変わっていきました。この流れの中で、業界全体が「同意の確実な取得」「代替技術の模索」、そして何より「自社で収集するファーストパーティデータの重視」へと、戦略的なシフトを余儀なくされてきたのです。

2025年、Chromeの「Uターン」は何を変えたのか

SafariやFirefoxが厳格なブロックに踏み切る一方、世界最大のシェアを持つGoogle Chromeの動向は、常に業界の最大の関心事でした。Chromeは、プライバシー保護と広告エコシステムの維持を両立させるという難しい課題に対し、「プライバシーサンドボックス(Privacy Sandbox)」構想を掲げていました。これは、3PCを廃止する代わりに、個人の特定を防ぎつつ広告配信や効果測定を可能にする新しい技術群(API)を提供するという壮大なプロジェクトです。

その計画に基づき、Googleは2024年1月、ついに全Chromeユーザーの1%を対象に3PCをデフォルトで制限する大規模なテストを開始しました。これは、競合ブラウザの動きにようやく追随する重要な一歩であり、2024年後半にかけて段階的に廃止対象を拡大していく予定であると、当時は想定されていました。

しかし、この計画は大きな転換点を迎えます。プライバシーサンドボックスの仕組みが、結果的にGoogleの広告事業における優位性をさらに高めるのではないかという競争上の懸念が、特に英国の競争・市場庁(CMA)から継続的に示されていました。CMAは、Googleが3PCを廃止するプロセスを厳しく監督することを表明し、両者は2022年にコミットメント(誓約)を結んでいました。

この複雑な状況下で、Googleは2025年4月、市場を驚かせる方針転換を発表します。それは、「3PCに関する新たなスタンドアロンの選択プロンプト(3PCをブロックするかどうかをユーザーに尋ねる独立した画面)を導入しない」こと、そして「既存のChrome設定内でユーザーに選択を委ねる」というものでした。これは、事実上、Chromeの一般ブラウジングモードにおける3PCの全面的な廃止計画を「見送る」という判断であり、主要メディアはこれを“Uターン”と報じました。

このGoogleの転換は、即座に規制当局の対応にも変化をもたらしました。CMAは2025年6月、Googleが3PCの一般的ブロック計画自体を改めたことで、競争上の懸念が後退したと判断。Googleが2022年に結んだコミットメントは「もはや必要ない」とする見解を示し、その解除に向けた意見募集を開始しました。そして同年10月、CMAはコミットメント解除の決定文書を公表し、約4年にわたる異例の監督体制に終止符が打たれました。

さらに決定打となったのが、同じく2025年10月にGoogleが更新したプライバシーサンドボックスの「今後の計画」です。Topics(興味関心ターゲティング)、Protected Audience(リターゲティング)、Attribution Reporting(効果測定)といった、広告の中核を担うと目されていた主要なAPI群について、「低い採用度(広範な採用に至らなかった)」を理由に、順次リタイア(廃止)することが明言されたのです。

一方で、CHIPS(パーティション化クッキー)、FedCM(ID連携管理)、Private State Tokens(不正対策)といった技術は継続されることも併せて発表されました。これは、Googleが「3PCの即時全廃はしない」と同時に、「3PCに代わる独自規格の広告基盤を強行することもない」という姿勢を明確にしたことを意味します。舵は、クッキーとID連携の扱いを、よりプライバシーに配慮した形へ「整える」方向へと切られたのです。

なお、Chromeのシークレット(Incognito)モードにおいては、従来どおり3PCは既定でブロックされる方針も再確認されています。一般モードでの全廃は撤回されましたが、「追跡抑制を強化する」という大方針そのものは維持されていると解釈すべきでしょう。

「ポストサードパーティークッキー」の現実

2025年の一連の出来事を経て、私たちはどのような現実に直面しているのでしょうか。「Chromeで3PCが全廃されないなら、元に戻るのか」と考えるのは、最も危険な誤解です。理由は大きく三つあります。

第一に、Chrome以外のブラウザ、すなわちSafariとFirefoxでは、すでに厳格な3PCブロッキングが常態化しています。これは、市場の一定割合のオーディエンスには、もはや3PCを用いた追跡やターゲティングが技術的に届かないことを意味します。この現実は2025年を経ても一切変わっていません。

第二に、Google自身が、プライバシーサンドボックスの中核的な広告API(Topicsなど)から撤退したという事実です。これは、「3PCの代わりに、この新しいAPIに乗り換えれば、以前と同じような広告精度が戻ってくる」という単純な移行の道が閉ざされたことを示します。Googleは、広告測定などの標準化を、自社単独ではなく、W3C(World Wide Web Consortium)のような業界横断的な合意形成の場へと差し戻した格好です。

第三に、GDPRに代表される法規制の要請は、後戻りしていません。たとえ技術的に3PCが利用可能であっても、ユーザーからの明確かつ粒度の細かい同意がなければ、法務リスクを抱えることに変わりはありません。

では、企業は具体的に何に取り組むべきなのでしょうか。焦点は、3PCに依存せずとも必要なウェブ体験やビジネス上の目標を達成するための、技術の「複線化」と「安定運用」にあります。

Googleが継続を明言した技術群は、そのための「足回り」を整えるものです。たとえば、CHIPS(Cookies Having Independent Partitioned State)は、「Partitioned」属性を付与することで、トップレベルサイトごとにストレージが分離されたサードパーティクッキーを許容する仕組みです。これはクロスサイト追跡には利用できませんが、サイトに埋め込まれたチャットウィジェット、地図、決済機能などが正しく動作するために必要な「状態保持」を、プライバシーリスクを抑えつつ実現します。

ログイン連携に関しては、FedCM(Federated Credential Management)が標準的なフローを提供します。これにより、従来の3PCやリダイレクトに頼ることなく、ブラウザがユーザーの合意を仲介し、安全なID連携(例:GoogleやFacebookでのログイン)を実現できます。UXとプライバシーの両立が図りやすくなります。

また、Private State Tokens(旧称Trust Tokens)は、個人を特定することなく「そのユーザーが信頼できるふるまいをしている証(ボットではない証など)」を暗号学的に伝える技術です。これは広告に限らず、不正アクセスやアビューズ対策といった、サイトの健全性を保つ領域で活用が想定されます。

これらはあくまで機能の「保全」であり、広告ターゲティングの代替ではありません。したがって、マーケティングや分析の実務においては、次のような多角的なアプローチが不可欠です。

まず、同意管理(CMP)のUXとログ設計を徹底的に見直し、ユーザーの信頼を得つつ、法的にクリーンな状態を担保することが大前提となります。次に、計測の軸足をクライアントサイド(ブラウザ)からサーバーサイドへと移し、ブラウザの制限によるデータの欠損や重複に耐えうるID解決の仕組み(ファーストパーティIDの整備)を構築することが急務です。

広告運用面では、リターゲティングのような3PC依存の手法への偏重から脱却し、コンテクスチュアル(文脈)広告、クリエイティブの最適化、あるいはMMM(マーケティング・ミックス・モデリング)やインクリメンタリティ測定といった、統計的なアプローチによる意思決定の比重を高めていく必要があります。

2025年の出来事を総括すると、Chromeは3PCの全面廃止を見送り、CMAの監督も終息し、プライバシーサンドボックスの主要APIから撤退しました。しかし、SafariとFirefoxのブロックは続き、規制の要請も変わりません。Googleは、CHIPSやFedCMといった機能保全技術を残しつつ、広告標準化の議論を業界全体に開きました。

ということで、サードパーティークッキーは、Chromeにおいて「突然消えはしない」ことになりました。しかし、ビジネスがサードパーティークッキーに頼りきりでいられる時代は、規制と競合ブラウザの動向によって、すでに終わっているのです。企業は、「3PCありき」の発想から完全に卒業し、ファーストパーティデータとユーザーの信頼を中核に据えた、より強靭なデジタル戦略を構築していく必要があります。…
Read More

Continue Reading
GDPR

初心者でもわかるエッジコンピューティング入門

クラウドの限界を超えて――なぜ今、エッジコンピューティングが求められるのか 21世紀初頭から今日に至るまで、私たちのデジタル社会を支えてきた基盤は、間違いなくクラウドコンピューティングでした。膨大な計算資源とストレージを、必要な時に必要なだけ利用できるクラウドの登場は、ビジネスの立ち上げコストを劇的に引き下げ、データ活用の裾野をあらゆる産業へと広げました。しかし、社会のデジタル化がさらに進展し、あらゆるモノがインターネットに繋がるIoTの時代が本格的に到来したことで、これまで万能に見えたクラウド集中型のアーキテクチャは、いくつかの根源的な課題に直面することになります。 第一の課題は「遅延(レイテンシ)」です。物理的な距離は、光の速さをもってしても越えられない壁となります。例えば、工場の生産ラインを流れる製品の異常を検知するシステムや、自動運転車が前方の障害物を認識するシステムを考えてみましょう。これらのシステムでは、コンマ数秒の判断の遅れが、大きな損害や人命に関わる事故に直結します。センサーが捉えたデータを一度遠く離れたクラウドデータセンターへ送り、そこで処理した結果を現場に戻すという往復の時間は、こうしたミリ秒単位の応答性が求められる用途においては致命的なのです。データが生まれる「現場」と、それを処理する「頭脳」が離れすぎているという、クラウド集中型モデルの構造的な限界がここにあります。 第二に「通信帯域とコスト」の問題です。工場の高精細カメラ、街角の監視カメラ、車両に搭載された多数のセンサーなど、現代社会では膨大なデータがリアルタイムに生成され続けています。これらのデータをすべてクラウドに送信しようとすれば、通信ネットワークには計り知れない負荷がかかります。通信帯域を増強するには莫大なコストがかかりますし、そもそも通信環境が不安定な山間部や海上などでは、常時大容量のデータを送り続けること自体が困難です。結果として、貴重なデータでありながら、通信の制約のために収集を諦めたり、画質を落としたりといった妥協を迫られるケースは少なくありません。データは増え続ける一方、それを運ぶ道には限りがあるのです。 そして第三の課題が、「プライバシーとデータガバナンス」への意識の高まりです。個人の顔が映った映像データ、患者の機密性の高い生体情報、企業の生産に関わる重要なノウハウなど、組織の外部に持ち出すべきではないデータは数多く存在します。また、各国のデータ保護規制(例えばGDPR)は、データの国外移転を厳しく制限しており、コンプライアンス遵守は企業にとって最重要課題の一つです。すべてのデータをクラウドに集約するアプローチは、こうした機微な情報を物理的に外部へ転送することを意味し、情報漏洩のリスクや法規制への対応という点で、新たな課題を生み出しました。 これらの課題を解決するアプローチとして脚光を浴びているのが、エッジコンピューティングです。その思想は「データの地産地消」とも言え、データが発生した場所、すなわちネットワークの末端(エッジ)か、そのすぐ近くでデータを処理します。現場で即座に判断を下すことで遅延を最小化し、不要なデータをクラウドに送らないことで通信帯域を節約し、機微な情報をローカル環境に留めることでセキュリティとプライバシーを確保する。これがエッジコンピューティングの基本的な価値です。重要なのは、エッジがクラウドを完全に置き換えるものではないという点です。AIモデルのトレーニングや大規模なデータ分析、複数拠点にまたがる情報の統合管理といった、膨大な計算能力と長期間のデータ保存が求められる処理は、依然としてクラウドの得意分野です。リアルタイムの判断はエッジが担い、その結果や要約されたデータ、さらなる分析に必要な情報のみをクラウドに送る。このように、それぞれの長所を活かして役割分担を行う「協調型アーキテクチャ」こそが、現代の分散システムの理想的な姿なのです。 現場でデータを処理する技術――エッジの仕組みと具体的な活用事例 エッジコンピューティングは、単一の技術ではなく、複数の技術要素が階層的に組み合わさって機能するシステムアーキテクチャです。この構造を理解するためには、データが生成されてから価値に変わるまでの流れを追うのが最も分かりやすいでしょう。 最も現場に近い第一の階層は「デバイスエッジ」です。ここには、センサーやカメラ、工場の制御装置(PLC)、スマートフォンといった、データ発生源そのものが位置します。これらのデバイスは、近年、単純にデータを収集するだけでなく、ある程度の計算能力を持つようになりました。例えば、カメラ自身が映像の中から人の顔だけを検出したり、センサーが異常な振動パターンを検知した際にだけデータを送信したりといった、基本的な前処理やフィルタリングを行います。これにより、後段のシステムに送るデータの量を初期段階で削減できます。 次の階層が、デバイス群を束ねる「近接ノード」や「オンプレミスエッジ」です。工場の事務所に設置されたサーバー、店舗のバックヤードにある小型のデータセンター、あるいは通信事業者が提供する基地局内のサーバー(MEC: Multi-access Edge Computing)などがこれにあたります。デバイスから送られてきたデータはここで集約され、より高度な処理、特にAIによる推論が実行されます。学習済みのAIモデルを用いて、リアルタイムに不良品を判定したり、顧客の行動を分析したりといった、現場の意思決定に直結するインテリジェンスがここで生まれます。 そして、これらのエッジ層の上位に、従来通り「クラウド」が存在します。エッジで処理された結果や、統計情報、重要なイベントのログなどがクラウドに集められ、全社的な経営判断のための分析、AIモデルの再学習、ソフトウェアのアップデート管理などに活用されます。現場の自律性を担保しつつ、中央での統括的な管理と改善サイクルを回すための司令塔としての役割を担うのです。 この階層的なアーキテクチャは、すでに様々な産業で具体的な価値を生み出しています。製造業では、ベルトコンベアを流れる部品を撮影した高解像度画像をエッジサーバー上のAIが瞬時に解析し、人間の目では見逃してしまうような微細な傷や歪みを検出します。これにより、不良品の流出を未然に防ぎ、品質管理のレベルを飛躍的に向上させています。モビリティの領域では、車両に搭載されたエッジコンピュータが、カメラやレーダーからの情報をリアルタイムに処理し、歩行者の飛び出しや先行車両の急ブレーキを検知して衝突を回避します。一瞬の判断が安全を左右するこの世界では、クラウドとの通信を待つ余裕などありません。 小売業や流通業においても、エッジの活用は進んでいます。店舗内に設置されたカメラの映像をエッジで分析し、顧客の動線や商品の前での滞在時間を把握することで、より魅力的な売り場作りや効果的な人員配置に繋げています。この際、個人を特定するような映像そのものはクラウドに送らず、匿名化された統計データのみを送信することで、プライバシーに配慮したデータ活用が可能になります。また、医療現場では、患者のベッドサイドに設置されたセンサーからの生体データをエッジで常時監視し、危険な兆候が見られた場合にのみ医療スタッフの端末へアラートを送信するシステムが開発されています。これにより、医療従事者の負担を軽減しつつ、患者の急変に迅速に対応できるようになるのです。これらの事例に共通しているのは、データの発生現場で即座に状況を判断し、次のアクションに繋げることで、新たな価値を創造している点です。 導入から成熟へ――エッジコンピューティングを成功に導くための羅針盤 エッジコンピューティングがもたらす価値は大きい一方で、その導入と運用は、クラウドだけのシステムとは異なる特有の難しさを伴います。この新しいアーキテクチャを成功させるためには、技術的な課題と運用上の課題の両方を見据えた、周到な戦略が不可欠です。 導入における最初の、そして最も重要な意思決定は、「どの処理を、どの階層に配置するか」というワークロード分割です。この判断は、システムの目的によって決まります。厳しいリアルタイム性が求められる処理、オフライン環境でも動作し続ける必要がある機能、通信コストを抑えたい処理、そして機微なデータを外部に出したくない処理。これらに該当するものは、エッジ側に配置するのが原則です。一方で、膨大なデータを横断的に分析する処理や、長期にわたってデータを保管する必要があるもの、複数の拠点で一貫した管理が求められる機能は、クラウドに配置するのが合理的です。特にAIの活用においては、「推論はエッジで、学習はクラウドで」というのが現在の定石ですが、近年ではエッジ側で得られたデータを使ってモデルを少しずつ自己改善していく継続学習や、プライバシーを守りながら複数拠点に分散したデータを協調的に学習させる連合学習(Federated Learning)といった、より高度な設計も広がりつつあります。 コスト設計も重要な論点です。エッジデバイスやサーバーといったハードウェアの初期投資はもちろんですが、見落としてはならないのが、長期的に発生する通信コストと運用管理コストです。すべてのデータをクラウドに送る設計は、一見シンプルですが、データの増加に伴って通信料が膨らみ、結果的に総所有コスト(TCO)を押し上げる可能性があります。エッジでデータを適切にフィルタリングし、価値の高い情報だけをクラウドに送る設計は、プライバシーや性能面だけでなく、コスト効率の観点からも優れている場合が多いのです。 そして、システムが稼働した後の運用フェーズでは、地理的に分散した多数のデバイスをいかに効率的かつ安全に管理するかが最大の課題となります。アプリケーションのアップデートやAIモデルの更新を、遠隔から一斉に、かつ安全に展開するための仕組み(フリート管理)は必須です。また、システムの健全性を監視する際も、CPU使用率やメモリといった従来の指標に加え、AIモデルの推論精度が時間と共に劣化していないか(モデルドリフト)、センサーのキャリブレーションは正常か、といった「現場の物理的な状態」まで含めた観測が求められます。 セキュリティは、あらゆる階層で考慮されなければならない最重要項目です。現場に物理的に設置されるエッジデバイスは、盗難や不正なアクセスといった物理的な攻撃のリスクに晒されます。そのため、デバイスが起動する際に正規のソフトウェアしか実行させないセキュアブートや、暗号鍵を安全に保護するための専用チップ(TPM)の搭載といった、ハードウェアレベルでの対策が重要になります。ネットワークにおいても、拠点間やクラウドとの通信はすべて暗号化し、ゼロトラストの原則、すなわち「何も信頼しない」ことを前提に、すべての通信相手を厳格に認証する仕組みが求められます。 エッジコンピューティングの未来は、5Gやその後継となる次世代通信技術の普及、より電力効率の高いAIアクセラレータの登場、そして、より洗練された分散管理ソフトウェアの進化によって、さらに大きく開かれていくでしょう。最終的に企業の競争力を左右するのは、ビジネスの要件やコスト、法規制といった様々な制約条件の中で、クラウドとエッジの間に「最適な境界線」を継続的に見出し、引き直していく能力です。エッジコンピューティングとは、単なる技術の導入ではなく、制約の中で価値を最大化するための設計思想そのものなのです。…

クラウドの限界を超えて――なぜ今、エッジコンピューティングが求められるのか

21世紀初頭から今日に至るまで、私たちのデジタル社会を支えてきた基盤は、間違いなくクラウドコンピューティングでした。膨大な計算資源とストレージを、必要な時に必要なだけ利用できるクラウドの登場は、ビジネスの立ち上げコストを劇的に引き下げ、データ活用の裾野をあらゆる産業へと広げました。しかし、社会のデジタル化がさらに進展し、あらゆるモノがインターネットに繋がるIoTの時代が本格的に到来したことで、これまで万能に見えたクラウド集中型のアーキテクチャは、いくつかの根源的な課題に直面することになります。

第一の課題は「遅延(レイテンシ)」です。物理的な距離は、光の速さをもってしても越えられない壁となります。例えば、工場の生産ラインを流れる製品の異常を検知するシステムや、自動運転車が前方の障害物を認識するシステムを考えてみましょう。これらのシステムでは、コンマ数秒の判断の遅れが、大きな損害や人命に関わる事故に直結します。センサーが捉えたデータを一度遠く離れたクラウドデータセンターへ送り、そこで処理した結果を現場に戻すという往復の時間は、こうしたミリ秒単位の応答性が求められる用途においては致命的なのです。データが生まれる「現場」と、それを処理する「頭脳」が離れすぎているという、クラウド集中型モデルの構造的な限界がここにあります。

第二に「通信帯域とコスト」の問題です。工場の高精細カメラ、街角の監視カメラ、車両に搭載された多数のセンサーなど、現代社会では膨大なデータがリアルタイムに生成され続けています。これらのデータをすべてクラウドに送信しようとすれば、通信ネットワークには計り知れない負荷がかかります。通信帯域を増強するには莫大なコストがかかりますし、そもそも通信環境が不安定な山間部や海上などでは、常時大容量のデータを送り続けること自体が困難です。結果として、貴重なデータでありながら、通信の制約のために収集を諦めたり、画質を落としたりといった妥協を迫られるケースは少なくありません。データは増え続ける一方、それを運ぶ道には限りがあるのです。

そして第三の課題が、「プライバシーとデータガバナンス」への意識の高まりです。個人の顔が映った映像データ、患者の機密性の高い生体情報、企業の生産に関わる重要なノウハウなど、組織の外部に持ち出すべきではないデータは数多く存在します。また、各国のデータ保護規制(例えばGDPR)は、データの国外移転を厳しく制限しており、コンプライアンス遵守は企業にとって最重要課題の一つです。すべてのデータをクラウドに集約するアプローチは、こうした機微な情報を物理的に外部へ転送することを意味し、情報漏洩のリスクや法規制への対応という点で、新たな課題を生み出しました。

これらの課題を解決するアプローチとして脚光を浴びているのが、エッジコンピューティングです。その思想は「データの地産地消」とも言え、データが発生した場所、すなわちネットワークの末端(エッジ)か、そのすぐ近くでデータを処理します。現場で即座に判断を下すことで遅延を最小化し、不要なデータをクラウドに送らないことで通信帯域を節約し、機微な情報をローカル環境に留めることでセキュリティとプライバシーを確保する。これがエッジコンピューティングの基本的な価値です。重要なのは、エッジがクラウドを完全に置き換えるものではないという点です。AIモデルのトレーニングや大規模なデータ分析、複数拠点にまたがる情報の統合管理といった、膨大な計算能力と長期間のデータ保存が求められる処理は、依然としてクラウドの得意分野です。リアルタイムの判断はエッジが担い、その結果や要約されたデータ、さらなる分析に必要な情報のみをクラウドに送る。このように、それぞれの長所を活かして役割分担を行う「協調型アーキテクチャ」こそが、現代の分散システムの理想的な姿なのです。

現場でデータを処理する技術――エッジの仕組みと具体的な活用事例

エッジコンピューティングは、単一の技術ではなく、複数の技術要素が階層的に組み合わさって機能するシステムアーキテクチャです。この構造を理解するためには、データが生成されてから価値に変わるまでの流れを追うのが最も分かりやすいでしょう。

最も現場に近い第一の階層は「デバイスエッジ」です。ここには、センサーやカメラ、工場の制御装置(PLC)、スマートフォンといった、データ発生源そのものが位置します。これらのデバイスは、近年、単純にデータを収集するだけでなく、ある程度の計算能力を持つようになりました。例えば、カメラ自身が映像の中から人の顔だけを検出したり、センサーが異常な振動パターンを検知した際にだけデータを送信したりといった、基本的な前処理やフィルタリングを行います。これにより、後段のシステムに送るデータの量を初期段階で削減できます。

次の階層が、デバイス群を束ねる「近接ノード」や「オンプレミスエッジ」です。工場の事務所に設置されたサーバー、店舗のバックヤードにある小型のデータセンター、あるいは通信事業者が提供する基地局内のサーバー(MEC: Multi-access Edge Computing)などがこれにあたります。デバイスから送られてきたデータはここで集約され、より高度な処理、特にAIによる推論が実行されます。学習済みのAIモデルを用いて、リアルタイムに不良品を判定したり、顧客の行動を分析したりといった、現場の意思決定に直結するインテリジェンスがここで生まれます。

そして、これらのエッジ層の上位に、従来通り「クラウド」が存在します。エッジで処理された結果や、統計情報、重要なイベントのログなどがクラウドに集められ、全社的な経営判断のための分析、AIモデルの再学習、ソフトウェアのアップデート管理などに活用されます。現場の自律性を担保しつつ、中央での統括的な管理と改善サイクルを回すための司令塔としての役割を担うのです。

この階層的なアーキテクチャは、すでに様々な産業で具体的な価値を生み出しています。製造業では、ベルトコンベアを流れる部品を撮影した高解像度画像をエッジサーバー上のAIが瞬時に解析し、人間の目では見逃してしまうような微細な傷や歪みを検出します。これにより、不良品の流出を未然に防ぎ、品質管理のレベルを飛躍的に向上させています。モビリティの領域では、車両に搭載されたエッジコンピュータが、カメラやレーダーからの情報をリアルタイムに処理し、歩行者の飛び出しや先行車両の急ブレーキを検知して衝突を回避します。一瞬の判断が安全を左右するこの世界では、クラウドとの通信を待つ余裕などありません。

小売業や流通業においても、エッジの活用は進んでいます。店舗内に設置されたカメラの映像をエッジで分析し、顧客の動線や商品の前での滞在時間を把握することで、より魅力的な売り場作りや効果的な人員配置に繋げています。この際、個人を特定するような映像そのものはクラウドに送らず、匿名化された統計データのみを送信することで、プライバシーに配慮したデータ活用が可能になります。また、医療現場では、患者のベッドサイドに設置されたセンサーからの生体データをエッジで常時監視し、危険な兆候が見られた場合にのみ医療スタッフの端末へアラートを送信するシステムが開発されています。これにより、医療従事者の負担を軽減しつつ、患者の急変に迅速に対応できるようになるのです。これらの事例に共通しているのは、データの発生現場で即座に状況を判断し、次のアクションに繋げることで、新たな価値を創造している点です。

導入から成熟へ――エッジコンピューティングを成功に導くための羅針盤

エッジコンピューティングがもたらす価値は大きい一方で、その導入と運用は、クラウドだけのシステムとは異なる特有の難しさを伴います。この新しいアーキテクチャを成功させるためには、技術的な課題と運用上の課題の両方を見据えた、周到な戦略が不可欠です。

導入における最初の、そして最も重要な意思決定は、「どの処理を、どの階層に配置するか」というワークロード分割です。この判断は、システムの目的によって決まります。厳しいリアルタイム性が求められる処理、オフライン環境でも動作し続ける必要がある機能、通信コストを抑えたい処理、そして機微なデータを外部に出したくない処理。これらに該当するものは、エッジ側に配置するのが原則です。一方で、膨大なデータを横断的に分析する処理や、長期にわたってデータを保管する必要があるもの、複数の拠点で一貫した管理が求められる機能は、クラウドに配置するのが合理的です。特にAIの活用においては、「推論はエッジで、学習はクラウドで」というのが現在の定石ですが、近年ではエッジ側で得られたデータを使ってモデルを少しずつ自己改善していく継続学習や、プライバシーを守りながら複数拠点に分散したデータを協調的に学習させる連合学習(Federated Learning)といった、より高度な設計も広がりつつあります。

コスト設計も重要な論点です。エッジデバイスやサーバーといったハードウェアの初期投資はもちろんですが、見落としてはならないのが、長期的に発生する通信コストと運用管理コストです。すべてのデータをクラウドに送る設計は、一見シンプルですが、データの増加に伴って通信料が膨らみ、結果的に総所有コスト(TCO)を押し上げる可能性があります。エッジでデータを適切にフィルタリングし、価値の高い情報だけをクラウドに送る設計は、プライバシーや性能面だけでなく、コスト効率の観点からも優れている場合が多いのです。

そして、システムが稼働した後の運用フェーズでは、地理的に分散した多数のデバイスをいかに効率的かつ安全に管理するかが最大の課題となります。アプリケーションのアップデートやAIモデルの更新を、遠隔から一斉に、かつ安全に展開するための仕組み(フリート管理)は必須です。また、システムの健全性を監視する際も、CPU使用率やメモリといった従来の指標に加え、AIモデルの推論精度が時間と共に劣化していないか(モデルドリフト)、センサーのキャリブレーションは正常か、といった「現場の物理的な状態」まで含めた観測が求められます。

セキュリティは、あらゆる階層で考慮されなければならない最重要項目です。現場に物理的に設置されるエッジデバイスは、盗難や不正なアクセスといった物理的な攻撃のリスクに晒されます。そのため、デバイスが起動する際に正規のソフトウェアしか実行させないセキュアブートや、暗号鍵を安全に保護するための専用チップ(TPM)の搭載といった、ハードウェアレベルでの対策が重要になります。ネットワークにおいても、拠点間やクラウドとの通信はすべて暗号化し、ゼロトラストの原則、すなわち「何も信頼しない」ことを前提に、すべての通信相手を厳格に認証する仕組みが求められます。

エッジコンピューティングの未来は、5Gやその後継となる次世代通信技術の普及、より電力効率の高いAIアクセラレータの登場、そして、より洗練された分散管理ソフトウェアの進化によって、さらに大きく開かれていくでしょう。最終的に企業の競争力を左右するのは、ビジネスの要件やコスト、法規制といった様々な制約条件の中で、クラウドとエッジの間に「最適な境界線」を継続的に見出し、引き直していく能力です。エッジコンピューティングとは、単なる技術の導入ではなく、制約の中で価値を最大化するための設計思想そのものなのです。…
Read More

Continue Reading