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Slackのダイレクトメッセージ、実は会社も見られるかもしれない

社内のカジュアルな連絡手段として、多くのビジネスパーソンが日常的に利用しているSlackのダイレクトメッセージ(DM)。同僚との気軽な業務調整から、ときには少し踏み込んだ相談事まで、その用途は多岐にわたります。多くの人が「一対一や特定メンバーだけのDMはプライベートな空間だから、会社側が内容を見ることはないだろう」と考えているかもしれません。しかし、その認識は必ずしも正しくありません。Slackは、管理者が“従業員のアプリ画面を勝手に開いて他人のDMを覗き見る”といった設計にはなっていませんが、企業が正当な理由に基づき、DMを含むコミュニケーションの記録を取得するための仕組みを備えています。具体的には、標準で用意されているデータのエクスポート機能や、より高度なeディスカバリ(電子情報開示)のためのDiscovery APIを通じて、法令や社内規程に基づき会話データを取得することが可能なのです。本稿では、利用しているSlackのプランによって取得できるデータの範囲がどう変わるのか、企業はどのようなプロセスを経てDMの内容を確認するのか、データの保存期間や社外ユーザーと繋がるSlack Connectの扱いはどうなるのかまで、従業員と企業双方の視点から実務に即して深く掘り下げて解説します。 リアルタイムのDM覗き見はできない まず最初に押さえておきたい最も重要な点は、Slackにおける会社側のデータ閲覧が、どのような形で行われるかということです。一般的なイメージとして、管理者が特別な権限で従業員のSlack画面にログインし、リアルタイムでDMのやり取りを監視する、といった光景を想像するかもしれませんが、Slackはそのような機能を提供していません。第三者のDMを、その人のアカウントを使わずにSlackアプリの管理画面上で直接開いて読む、といった“覗き見”はできない設計になっています。 企業が内部調査や外部監査、あるいは訴訟への対応といった正当な理由でコミュニケーションの内容を確認する必要に迫られた場合、行われるのはワークスペース全体のデータの「エクスポート」です。これは、指定した期間のコミュニケーション記録を、一つのまとまったファイル(通常はZIP形式)としてダウンロードする操作を指します。エクスポートされたデータの中身は、普段私たちが見ているグラフィカルなインターフェースではなく、JSON(JavaScript Object Notation)やプレーンテキストといった、コンピュータが処理しやすい形式のファイル群です。人事部や法務部、情報セキュリティ部門の担当者は、これらのファイルを開き、特定のキーワードで検索したり、時系列で会話を追ったりすることで内容を検証します。 さらに、コンプライアンス要件が厳しい大企業向けには、最上位プランであるEnterprise Gridで「Discovery API」という仕組みが用意されています。これは、Slack上のデータを外部の専門的なeディスカバリツールやDLP(情報漏洩防止)ツールと常時連携させるためのものです。このAPIを有効化すると、DMを含むあらゆる会話やファイルが、承認された外部のアーカイブシステムに継続的に収集・保存され、高度な検索や監査、証跡管理が可能になります。つまり、Slackにおける「見られるかもしれない」というリスクの本質は、リアルタイムの“監視”ではなく、記録された過去のデータを必要に応じて“抽出・読解”される可能性にあるのです。 プラン別に変わる「到達可能範囲」 会社がDMの内容にどこまでアクセスできるかは、契約しているSlackの料金プランによって大きく異なります。それぞれのプランで可能なデータエクスポートの範囲と、その手続きには明確な違いが設けられています。 まず、多くのスタートアップや中小企業で利用されているであろうFreeプランとProプランでは、管理者が特別な申請なしに実行できる標準のエクスポート機能の対象は、原則として「公開チャンネル」のメッセージ本文と、そこに投稿されたファイルの“リンク”のみです。非公開チャンネルやDMの内容は、この標準エクスポートには一切含まれません。これらのプライベートな会話のデータを企業が入手したい場合、単に管理者がボタンを押すだけでは不可能であり、訴訟における裁判所の命令や、対象となる全メンバーからの明確な同意を得るなど、非常に限定された法的な条件を満たした上で、Slack社に直接申請し、その申請が承認される必要があります。これは、従業員のプライバシー保護を重視した、極めて高いハードルと言えるでしょう。 次に、Business+プランでは、この扱いが一歩進みます。ワークスペースのオーナーがSlack社に申請し、それが承認されれば、「すべての公開チャンネル、非公開チャンネル、そしてDMのメッセージ本文」を管理者自身でエクスポートできる機能が有効化されます。Free/Proプランのようにその都度Slack社の審査を待つ必要はなく、一度有効化されれば、あとは管理者側の操作で実行可能です。ただし、ここでも注意が必要なのは、エクスポートされるデータの中心はあくまでメッセージのテキスト本文とファイルの“リンク”情報であり、ファイルそのもの(画像やPDFなどの実体データ)は原則として含まれないという点です。 そして、最も広範な権限を持つのが、大企業向けのEnterprise Gridプランです。このプランでは、組織のオーナーが申請することで、Business+プランと同様の自己実行型エクスポートを有効化できるだけでなく、前述のDiscovery APIの利用が可能になります。Discovery APIを介して外部のeディスカビリやDLP製品と連携させることで、DMを含むワークスペース内のあらゆる会話データや、共有されたファイルを継続的にアーカイブし、いつでも検索・閲覧できる体制を構築できます。さらに、Enterprise Gridプランには特殊なエクスポート形式があり、「単一の特定ユーザーが関与したすべての会話」をテキスト形式で出力する場合に限り、そのユーザーが共有したファイルの実体データも一緒にエクスポートされる、という例外的な取り扱いも公式に明示されています。このように、プランが上位になるほど、企業側がDMを含むデータにアクセスするための手続きは簡素化され、その範囲も広がっていくのです。 企業が実際にDMを見るまではこんな感じ では、実際に企業が従業員のDMの内容を確認する必要が生じた場合、どのようなプロセスが踏まれるのでしょうか。例えば、社内で情報漏洩やハラスメントなどのインシデントが発生し、調査が必要になったという典型的なケースを想定してみましょう。 まず、人事部門や法務部門、情報セキュリティ委員会といった然るべき組織で調査の開始が決定されます。調査担当者は、Slackの管理者(多くは情報システム部門の担当者)に対し、調査対象者、対象期間、そして調査目的を明確に伝えた上で、データのエクスポートを依頼します。管理者はその依頼に基づき、Slackの管理画面からエクスポート処理を実行します。Business+以上のプランで自己実行エクスポートが有効化されていれば、管理画面上で対象データの種類(公開チャンネル、非公開チャンネル、DMなど)や期間を指定して操作を行います。処理が完了すると、データがまとめられたZIPファイルへのダウンロードリンクが管理者に通知されます。 次に、管理者はダウンロードしたZIPファイルを、依頼元である人事・法務部門などの担当者に安全な方法で引き渡します。担当者はこのZIPファイルを展開し、中にあるJSONやテキストファイルを開いて内容を精査します。特定のキーワード(例えば、漏洩が疑われるプロジェクト名や、ハラスメントに関連する不適切な言葉など)で全ファイルを横断的に検索したり、特定のユーザー間の会話を時系列で追いかけたりして、インシデントの事実確認を進めていくことになります。 Enterprise GridプランでDiscovery APIを導入している企業の場合、このフローはよりシステム化・高度化されます。Hanzo、Relativity、Smarshといった専門のサードパーティ製eディスカバリツールに、Slackのデータが常時ストリーミングされ、アーカイブされています。調査が必要になった場合、権限を与えられた担当者はこれらのツールの管理画面にログインし、強力な検索機能を使って膨大なデータの中から必要な情報を瞬時に探し出します。これらのツールは、単に会話を検索するだけでなく、保全(リーガルホールド)、監査証跡の付与、ケース管理といった、法的な証拠能力を担保するための機能が充実しています。API経由で取得されるデータにはファイル実体へのダウンロードリンクも含まれるため、会話の文脈と合わせて証拠を確保し、調査の再現性を高める上で非常に有効です。いずれのフローにおいても、恣意的なデータ閲覧を防ぐため、誰が、いつ、どのような目的でデータにアクセスしたかという記録を残すことが、ガバナンス上、極めて重要になります。 何が見えるのか、どこまで残るのか エクスポートやAPI連携で「何が見えるか」、そして「いつまでのデータが残っているか」は、Slackのデータ保持(Retention)設定と、リーガルホールド(Legal Hold)という特殊な機能の有無によって決まります。 Slackでは、ワークスペース全体、あるいはチャンネルごとにメッセージやファイルの保持期間を設定できます。「すべてのメッセージを永久に保持する」という設定もあれば、「90日を過ぎたメッセージは自動的に削除する」といった設定も可能です。もし後者のように短い保持期間が設定されていれば、その期間を過ぎた古いDMはシステム上から削除されるため、当然エクスポートの対象からも外れ、会社側はそれを取得できなくなります。 しかし、ここで強力な影響力を持つのが、Enterprise Gridプランで利用できるリーガルホールド機能です。これは、特定の従業員が訴訟や調査の対象となった場合に、その従業員が関与するすべてのメッセージとファイルを、通常の保持設定とは無関係に、編集・削除された内容も含めてすべて保全するための仕組みです。例えば、ワークスペースの保持設定が「90日で削除」となっていても、ある従業員にリーガルホールドがかけられると、その瞬間からその従業員の過去および未来のすべてのコミュニケーションデータが、たとえ本人が削除操作を行ったとしても、裏側で完全に保存され続けます。そして、この保全されたデータは、エクスポートやDiscovery APIを通じてすべて取得可能になります。つまり、リーガルホールドが設定されている限り、保持期間の短さやユーザーによる削除操作は、データの閲覧可能性に対して何の意味もなさなくなるのです。利用者側からはリーガルホールドがかけられているかどうかを知ることはできません。 Slack ConnectのDMや共有チャンネルは“組織ごと”に扱いが分かれる 社外の取引先やパートナー企業と安全に連携できるSlack Connectは非常に便利な機能ですが、データの取り扱いについては少し複雑になります。Slack Connectを使って作成された共有チャンネルや、他組織のメンバーと交わされるDMでは、データガバナンスの考え方が「組織ごと」に分離されます。 具体的には、各組織は、自社のメンバーが投稿したメッセージや共有したファイルに対してのみ、自社のデータ保持ポリシーを適用し、エクスポートやリーガルホールドを実行する権限を持ちます。例えば、A社の従業員とB社の従業員が参加する共有チャンネルがあったとします。この場合、A社は自社の従業員の投稿内容を自社のポリシーに基づいて保持・エクスポートできますが、B社の従業員の投稿内容をA社のポリシーでコントロールすることはできません。B社の投稿は、B社のポリシーに従って管理されます。 これは、Enterprise Gridプランのeディスカバリ機能を利用している場合も同様で、共有チャンネルの内容はエクスポートの対象に含まれうるものの、どのメッセージやファイルを「どちらの組織側で」編集・削除・取得できるかは、それぞれの組織の設定に依存します。さらに注意すべき点として、Slackの公式ドキュメントでは、リーガルホールドの対象範囲から「Slack Connectの会話など」一部のデータが明示的に除外されているケースもあります。したがって、Slack Connectが関わるコミュニケーションについては、「自社側のデータは自社のポリシーで管理される」と同時に、「相手側のデータは相手のポリシーで管理されており、自社からはコントロールできない」という二つの側面を分けて考える必要があります。 調査対象になったときに自分に通知は来るのか 自分のDMが会社の調査対象となり、エクスポートされた場合、その事実は本人に通知されるのでしょうか。これは利用者として最も気になる点の一つでしょう。結論から言うと、Slackのシステムが自動的に「あなたのデータがエクスポートされました」といった通知を従業員全員に一斉送信するような仕組みは、標準では存在しません。 Slackのヘルプセンターでは、データエクスポート機能の利用は、各国の雇用関連法やプライバシー保護法、そして各企業が定める社内規程によって厳しく制限されるべきものであり、状況によっては企業が従業員に対して通知する義務を負う可能性がある、と説明されています。しかし、その通知義務の有無や、通知を行う場合の具体的な方法(事前通知か事後通知か、個別通知か一斉通知かなど)は、完全に個々の企業のポリシー設計と、準拠すべき法令に委ねられています。 例えば、不正調査のように、本人に通知することで証拠隠滅や関係者への口裏合わせが行われる恐れがあるケースでは、多くの企業が就業規則や情報セキュリティポリシーの中で「調査目的の場合には、事前の通知なくデータにアクセスすることがある」と定めています。一方で、平時の監査やシステム移行に伴うデータ出力など、秘匿性の低い目的であれば、従業員にその旨を周知することもあるでしょう。結果として、通知の有無はSlackの機能ではなく、自社の人事・法務・コンプライアンス部門が定めたルール次第ということになります。自身の会社の就業規則や関連規程に、電子データのモニタリングや監査に関する条項があるか、一度確認しておくことが推奨されます。 “消せば安心”ではない:保持設定と現場の落とし穴 多くのユーザーは、不適切なメッセージを送ってしまった際に「すぐに削除すれば問題ない」と考えがちです。しかし、Slackのデータ管理の仕組みを理解すると、その考えが必ずしも安全ではないことがわかります。 Slackでは、ワークスペース全体のデータ保持ポリシーを管理者が一元的に設定できますが、設定によっては、チャンネルごとや会話ごとにユーザーが保持ポリシーを上書き(オーバーライド)し、個別のDMの保存期間を短く設定できる場合もあります。しかし、たとえユーザー側でDMの保存期間を「1日」に設定していたとしても、それが絶対的な安全を保証するわけではありません。もし会社がEnterprise Gridプランを契約し、Discovery APIを通じて外部のアーカイブシステムに全データを連携させていたり、あるいは対象者にリーガルホールドがかけられていたりすれば、ユーザーの画面上ではメッセージが消えて見えても、監査用の完全な写しは企業の管理下にあるサーバーに残り続けます。 メッセージの編集や削除といった操作自体も、実はログとして記録されています。「いつ、誰が、どのメッセージを、どのような内容からどのような内容に編集したか」あるいは「削除したか」という履歴も、プランや設定によっては追跡可能です。データの保持や削除の実際のふるまいは、ワークスペース全体の設定、チャンネルごとの設定、ユーザー個別の設定、そしてリーガルホールドという最上位の命令が、どの順番で優先されるかを正しく理解してはじめて正確に把握できるのです。単純に「自分の画面から消したから大丈夫」という考えは、コンプライアンスが整備された組織においては通用しない可能性が高いと認識すべきです。 従業員が自衛のために知っておきたい最低限

社内のカジュアルな連絡手段として、多くのビジネスパーソンが日常的に利用しているSlackのダイレクトメッセージ(DM)。同僚との気軽な業務調整から、ときには少し踏み込んだ相談事まで、その用途は多岐にわたります。多くの人が「一対一や特定メンバーだけのDMはプライベートな空間だから、会社側が内容を見ることはないだろう」と考えているかもしれません。しかし、その認識は必ずしも正しくありません。Slackは、管理者が“従業員のアプリ画面を勝手に開いて他人のDMを覗き見る”といった設計にはなっていませんが、企業が正当な理由に基づき、DMを含むコミュニケーションの記録を取得するための仕組みを備えています。具体的には、標準で用意されているデータのエクスポート機能や、より高度なeディスカバリ(電子情報開示)のためのDiscovery APIを通じて、法令や社内規程に基づき会話データを取得することが可能なのです。本稿では、利用しているSlackのプランによって取得できるデータの範囲がどう変わるのか、企業はどのようなプロセスを経てDMの内容を確認するのか、データの保存期間や社外ユーザーと繋がるSlack Connectの扱いはどうなるのかまで、従業員と企業双方の視点から実務に即して深く掘り下げて解説します。

リアルタイムのDM覗き見はできない

まず最初に押さえておきたい最も重要な点は、Slackにおける会社側のデータ閲覧が、どのような形で行われるかということです。一般的なイメージとして、管理者が特別な権限で従業員のSlack画面にログインし、リアルタイムでDMのやり取りを監視する、といった光景を想像するかもしれませんが、Slackはそのような機能を提供していません。第三者のDMを、その人のアカウントを使わずにSlackアプリの管理画面上で直接開いて読む、といった“覗き見”はできない設計になっています。

企業が内部調査や外部監査、あるいは訴訟への対応といった正当な理由でコミュニケーションの内容を確認する必要に迫られた場合、行われるのはワークスペース全体のデータの「エクスポート」です。これは、指定した期間のコミュニケーション記録を、一つのまとまったファイル(通常はZIP形式)としてダウンロードする操作を指します。エクスポートされたデータの中身は、普段私たちが見ているグラフィカルなインターフェースではなく、JSON(JavaScript Object Notation)やプレーンテキストといった、コンピュータが処理しやすい形式のファイル群です。人事部や法務部、情報セキュリティ部門の担当者は、これらのファイルを開き、特定のキーワードで検索したり、時系列で会話を追ったりすることで内容を検証します。

さらに、コンプライアンス要件が厳しい大企業向けには、最上位プランであるEnterprise Gridで「Discovery API」という仕組みが用意されています。これは、Slack上のデータを外部の専門的なeディスカバリツールやDLP(情報漏洩防止)ツールと常時連携させるためのものです。このAPIを有効化すると、DMを含むあらゆる会話やファイルが、承認された外部のアーカイブシステムに継続的に収集・保存され、高度な検索や監査、証跡管理が可能になります。つまり、Slackにおける「見られるかもしれない」というリスクの本質は、リアルタイムの“監視”ではなく、記録された過去のデータを必要に応じて“抽出・読解”される可能性にあるのです。

プラン別に変わる「到達可能範囲」

会社がDMの内容にどこまでアクセスできるかは、契約しているSlackの料金プランによって大きく異なります。それぞれのプランで可能なデータエクスポートの範囲と、その手続きには明確な違いが設けられています。

まず、多くのスタートアップや中小企業で利用されているであろうFreeプランとProプランでは、管理者が特別な申請なしに実行できる標準のエクスポート機能の対象は、原則として「公開チャンネル」のメッセージ本文と、そこに投稿されたファイルの“リンク”のみです。非公開チャンネルやDMの内容は、この標準エクスポートには一切含まれません。これらのプライベートな会話のデータを企業が入手したい場合、単に管理者がボタンを押すだけでは不可能であり、訴訟における裁判所の命令や、対象となる全メンバーからの明確な同意を得るなど、非常に限定された法的な条件を満たした上で、Slack社に直接申請し、その申請が承認される必要があります。これは、従業員のプライバシー保護を重視した、極めて高いハードルと言えるでしょう。

次に、Business+プランでは、この扱いが一歩進みます。ワークスペースのオーナーがSlack社に申請し、それが承認されれば、「すべての公開チャンネル、非公開チャンネル、そしてDMのメッセージ本文」を管理者自身でエクスポートできる機能が有効化されます。Free/Proプランのようにその都度Slack社の審査を待つ必要はなく、一度有効化されれば、あとは管理者側の操作で実行可能です。ただし、ここでも注意が必要なのは、エクスポートされるデータの中心はあくまでメッセージのテキスト本文とファイルの“リンク”情報であり、ファイルそのもの(画像やPDFなどの実体データ)は原則として含まれないという点です。

そして、最も広範な権限を持つのが、大企業向けのEnterprise Gridプランです。このプランでは、組織のオーナーが申請することで、Business+プランと同様の自己実行型エクスポートを有効化できるだけでなく、前述のDiscovery APIの利用が可能になります。Discovery APIを介して外部のeディスカビリやDLP製品と連携させることで、DMを含むワークスペース内のあらゆる会話データや、共有されたファイルを継続的にアーカイブし、いつでも検索・閲覧できる体制を構築できます。さらに、Enterprise Gridプランには特殊なエクスポート形式があり、「単一の特定ユーザーが関与したすべての会話」をテキスト形式で出力する場合に限り、そのユーザーが共有したファイルの実体データも一緒にエクスポートされる、という例外的な取り扱いも公式に明示されています。このように、プランが上位になるほど、企業側がDMを含むデータにアクセスするための手続きは簡素化され、その範囲も広がっていくのです。

企業が実際にDMを見るまではこんな感じ

では、実際に企業が従業員のDMの内容を確認する必要が生じた場合、どのようなプロセスが踏まれるのでしょうか。例えば、社内で情報漏洩やハラスメントなどのインシデントが発生し、調査が必要になったという典型的なケースを想定してみましょう。

まず、人事部門や法務部門、情報セキュリティ委員会といった然るべき組織で調査の開始が決定されます。調査担当者は、Slackの管理者(多くは情報システム部門の担当者)に対し、調査対象者、対象期間、そして調査目的を明確に伝えた上で、データのエクスポートを依頼します。管理者はその依頼に基づき、Slackの管理画面からエクスポート処理を実行します。Business+以上のプランで自己実行エクスポートが有効化されていれば、管理画面上で対象データの種類(公開チャンネル、非公開チャンネル、DMなど)や期間を指定して操作を行います。処理が完了すると、データがまとめられたZIPファイルへのダウンロードリンクが管理者に通知されます。

次に、管理者はダウンロードしたZIPファイルを、依頼元である人事・法務部門などの担当者に安全な方法で引き渡します。担当者はこのZIPファイルを展開し、中にあるJSONやテキストファイルを開いて内容を精査します。特定のキーワード(例えば、漏洩が疑われるプロジェクト名や、ハラスメントに関連する不適切な言葉など)で全ファイルを横断的に検索したり、特定のユーザー間の会話を時系列で追いかけたりして、インシデントの事実確認を進めていくことになります。

Enterprise GridプランでDiscovery APIを導入している企業の場合、このフローはよりシステム化・高度化されます。Hanzo、Relativity、Smarshといった専門のサードパーティ製eディスカバリツールに、Slackのデータが常時ストリーミングされ、アーカイブされています。調査が必要になった場合、権限を与えられた担当者はこれらのツールの管理画面にログインし、強力な検索機能を使って膨大なデータの中から必要な情報を瞬時に探し出します。これらのツールは、単に会話を検索するだけでなく、保全(リーガルホールド)、監査証跡の付与、ケース管理といった、法的な証拠能力を担保するための機能が充実しています。API経由で取得されるデータにはファイル実体へのダウンロードリンクも含まれるため、会話の文脈と合わせて証拠を確保し、調査の再現性を高める上で非常に有効です。いずれのフローにおいても、恣意的なデータ閲覧を防ぐため、誰が、いつ、どのような目的でデータにアクセスしたかという記録を残すことが、ガバナンス上、極めて重要になります。

何が見えるのか、どこまで残るのか

エクスポートやAPI連携で「何が見えるか」、そして「いつまでのデータが残っているか」は、Slackのデータ保持(Retention)設定と、リーガルホールド(Legal Hold)という特殊な機能の有無によって決まります。

Slackでは、ワークスペース全体、あるいはチャンネルごとにメッセージやファイルの保持期間を設定できます。「すべてのメッセージを永久に保持する」という設定もあれば、「90日を過ぎたメッセージは自動的に削除する」といった設定も可能です。もし後者のように短い保持期間が設定されていれば、その期間を過ぎた古いDMはシステム上から削除されるため、当然エクスポートの対象からも外れ、会社側はそれを取得できなくなります。

しかし、ここで強力な影響力を持つのが、Enterprise Gridプランで利用できるリーガルホールド機能です。これは、特定の従業員が訴訟や調査の対象となった場合に、その従業員が関与するすべてのメッセージとファイルを、通常の保持設定とは無関係に、編集・削除された内容も含めてすべて保全するための仕組みです。例えば、ワークスペースの保持設定が「90日で削除」となっていても、ある従業員にリーガルホールドがかけられると、その瞬間からその従業員の過去および未来のすべてのコミュニケーションデータが、たとえ本人が削除操作を行ったとしても、裏側で完全に保存され続けます。そして、この保全されたデータは、エクスポートやDiscovery APIを通じてすべて取得可能になります。つまり、リーガルホールドが設定されている限り、保持期間の短さやユーザーによる削除操作は、データの閲覧可能性に対して何の意味もなさなくなるのです。利用者側からはリーガルホールドがかけられているかどうかを知ることはできません。

Slack ConnectのDMや共有チャンネルは“組織ごと”に扱いが分かれる

社外の取引先やパートナー企業と安全に連携できるSlack Connectは非常に便利な機能ですが、データの取り扱いについては少し複雑になります。Slack Connectを使って作成された共有チャンネルや、他組織のメンバーと交わされるDMでは、データガバナンスの考え方が「組織ごと」に分離されます。

具体的には、各組織は、自社のメンバーが投稿したメッセージや共有したファイルに対してのみ、自社のデータ保持ポリシーを適用し、エクスポートやリーガルホールドを実行する権限を持ちます。例えば、A社の従業員とB社の従業員が参加する共有チャンネルがあったとします。この場合、A社は自社の従業員の投稿内容を自社のポリシーに基づいて保持・エクスポートできますが、B社の従業員の投稿内容をA社のポリシーでコントロールすることはできません。B社の投稿は、B社のポリシーに従って管理されます。

これは、Enterprise Gridプランのeディスカバリ機能を利用している場合も同様で、共有チャンネルの内容はエクスポートの対象に含まれうるものの、どのメッセージやファイルを「どちらの組織側で」編集・削除・取得できるかは、それぞれの組織の設定に依存します。さらに注意すべき点として、Slackの公式ドキュメントでは、リーガルホールドの対象範囲から「Slack Connectの会話など」一部のデータが明示的に除外されているケースもあります。したがって、Slack Connectが関わるコミュニケーションについては、「自社側のデータは自社のポリシーで管理される」と同時に、「相手側のデータは相手のポリシーで管理されており、自社からはコントロールできない」という二つの側面を分けて考える必要があります。

調査対象になったときに自分に通知は来るのか

自分のDMが会社の調査対象となり、エクスポートされた場合、その事実は本人に通知されるのでしょうか。これは利用者として最も気になる点の一つでしょう。結論から言うと、Slackのシステムが自動的に「あなたのデータがエクスポートされました」といった通知を従業員全員に一斉送信するような仕組みは、標準では存在しません。

Slackのヘルプセンターでは、データエクスポート機能の利用は、各国の雇用関連法やプライバシー保護法、そして各企業が定める社内規程によって厳しく制限されるべきものであり、状況によっては企業が従業員に対して通知する義務を負う可能性がある、と説明されています。しかし、その通知義務の有無や、通知を行う場合の具体的な方法(事前通知か事後通知か、個別通知か一斉通知かなど)は、完全に個々の企業のポリシー設計と、準拠すべき法令に委ねられています。

例えば、不正調査のように、本人に通知することで証拠隠滅や関係者への口裏合わせが行われる恐れがあるケースでは、多くの企業が就業規則や情報セキュリティポリシーの中で「調査目的の場合には、事前の通知なくデータにアクセスすることがある」と定めています。一方で、平時の監査やシステム移行に伴うデータ出力など、秘匿性の低い目的であれば、従業員にその旨を周知することもあるでしょう。結果として、通知の有無はSlackの機能ではなく、自社の人事・法務・コンプライアンス部門が定めたルール次第ということになります。自身の会社の就業規則や関連規程に、電子データのモニタリングや監査に関する条項があるか、一度確認しておくことが推奨されます。

“消せば安心”ではない:保持設定と現場の落とし穴

多くのユーザーは、不適切なメッセージを送ってしまった際に「すぐに削除すれば問題ない」と考えがちです。しかし、Slackのデータ管理の仕組みを理解すると、その考えが必ずしも安全ではないことがわかります。

Slackでは、ワークスペース全体のデータ保持ポリシーを管理者が一元的に設定できますが、設定によっては、チャンネルごとや会話ごとにユーザーが保持ポリシーを上書き(オーバーライド)し、個別のDMの保存期間を短く設定できる場合もあります。しかし、たとえユーザー側でDMの保存期間を「1日」に設定していたとしても、それが絶対的な安全を保証するわけではありません。もし会社がEnterprise Gridプランを契約し、Discovery APIを通じて外部のアーカイブシステムに全データを連携させていたり、あるいは対象者にリーガルホールドがかけられていたりすれば、ユーザーの画面上ではメッセージが消えて見えても、監査用の完全な写しは企業の管理下にあるサーバーに残り続けます。

メッセージの編集や削除といった操作自体も、実はログとして記録されています。「いつ、誰が、どのメッセージを、どのような内容からどのような内容に編集したか」あるいは「削除したか」という履歴も、プランや設定によっては追跡可能です。データの保持や削除の実際のふるまいは、ワークスペース全体の設定、チャンネルごとの設定、ユーザー個別の設定、そしてリーガルホールドという最上位の命令が、どの順番で優先されるかを正しく理解してはじめて正確に把握できるのです。単純に「自分の画面から消したから大丈夫」という考えは、コンプライアンスが整備された組織においては通用しない可能性が高いと認識すべきです。

従業員が自衛のために知っておきたい最低限

ここまで解説してきた仕組みを踏まえ、一人の従業員として、私たちはどのようにSlackのDMと向き合うべきでしょうか。最も重要な心構えは、業務で利用するSlackは、たとえDMであっても、本質的にはプライベートな空間ではなく、組織のコミュニケーション基盤であり、その記録は会社の資産として扱われうる、という前提に立つことです。

この前提のもと、第三者の個人情報や取引先の機密情報、あるいは同僚の評価やハラスメントに該当しうるようなセンシティブな話題は、安易にDMに書き込むべきではありません。そうした内容は、公式な議題として設定されたチャンネルや、人事・法務部門が指定する正式な報告・相談フローに乗せるのが鉄則です。もし、業務上の悩みを誰かにプライベートに相談したい場合でも、その内容が会社の記録として残る可能性を念頭に置くべきです。本当に機密性の高い相談が必要なのであれば、社内規程で認められているセーフチャンネルや、内部通報制度のような匿名性が担保された窓口、あるいは会社とは独立した外部の専門相談機関などを利用する選択肢を検討してください。

また、自社のワークスペースがどのSlackプランで契約されており、データ保持やエクスポートに関するポリシーがどのように設定されているかについて、情報システム部門や人事部門に確認してみることも有効な自衛策です。Slackの公式ヘルプサイトを参照すれば、各プランでどのようなエクスポート機能が利用可能か、そして「申請によって利用可能になる拡張エクスポート」が存在することも明確に記載されています。自社の環境を知ることは、リスクを正しく理解し、適切なコミュニケーションを実践するための第一歩となります。

企業側の立場で考えると:正当性・必要性・相当性を揃える

一方で、従業員のDMを含むデータを取得する可能性のある企業側には、その権限を行使するにあたって、極めて重い責任と慎重な手続きが求められます。従業員のプライバシー権を不当に侵害しないよう、あらゆるプロセスにおいて「正当性」「必要性」「相当性」の三つの要件を満たす必要があります。

まず大前提として、就業規則や情報セキュリティ規程、プライバシーポリシーといった社内規程の中に、業務上の必要性がある場合に限り、会社が従業員の電子コミュニケーション(SlackのDMを含む)をモニタリングまたは取得することがある旨を、その目的、範囲、手続きとともに明文化し、従業員に周知徹底しておく必要があります。この規程は、国内外のプライバシー保護関連法(日本の個人情報保護法やEUのGDPRなど)と完全に整合していなければなりません。

Slack社自身も、データエクスポートやDiscovery APIといった機能は、あくまでセキュリティ調査やコンプライアンス遵守といった正当な目的のために提供していると位置づけています。特に、Business+プラン以上で利用できる申請制の“自己実行エクスポート”機能は、申請時に企業側が「適用される法令や、会社と従業員間の合意事項に適合していること」を表明することが利用条件となっています。

実際の運用にあたっては、調査の目的を達成するために必要最小限の範囲に限定してデータを取得すること(必要性)、そして、よりプライバシー侵害の少ない代替手段がないかを検討すること(相当性)が重要です。技術的な仕様、例えばリーガルホールドの対象範囲やSlack Connectのデータの扱い、ファイル実体の取得可否といった詳細を、社内規程に具体的に落とし込んでおくことで、いざという時の判断のブレを防ぎ、後の法的な紛争を避けることができます。従業員の信頼を損なわないためにも、透明性の高いルールと厳格な運用が不可欠です。

まとめ

Slackのダイレクトメッセージは、その手軽さからプライベートな会話空間であると誤解されがちですが、実際には会社の管理下にある業務用のコミュニケーションツールです。アプリの画面上で他人の会話を“覗き見”されることはありませんが、FreeプランやProプランであっても法的な要件を満たせば申請によるデータ取得が可能であり、Business+やEnterprise Gridプランでは、企業が申請・承認のうえで自己実行型のエクスポートを行ったり、Discovery APIを介してデータを恒常的にアーカイブしたりすることが現実的な選択肢となります。

最終的にDMのデータが「見える」か「見えない」かは、契約プラン、データ保持ポリシー、そしてリーガルホールドの有無といった複数の要素が複雑に絡み合った“全体設計”によって決まります。また、社外と繋がるSlack Connectでは、自社と相手方のポリシーがそれぞれ適用されるという複雑さも加わります。私たち利用者は、DMが潜在的に会社の記録資産となりうるという自覚を持ち、公私の区別をわきまえた責任あるコミュニケーションを心がけるべきです。同時に、企業側は、従業員のプライバシーに最大限配慮し、調査や監査といった権限行使にあたっては、法的に要求される正当性・必要性・相当性を満たす厳格なガバナンス体制を構築し、維持していく責務があります。この双方の理解と実践こそが、現代のビジネスに不可欠なコラボレーション基盤を、安全かつ効果的に使いこなすための最低ラインと言えるでしょう。…
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マルチクラウド戦略に潜む「統治困難性」という罠

もはやクラウドは、現代の企業活動において不可逆的なインフラとなった。AWS(アマゾン ウェブ サービス)、Microsoft Azure、Google Cloud(GCP)の3大プラットフォームが市場の大部分を占める中、世界中の企業がその上でビジネスを構築している。日本においても「脱オンプレミス」は長年のスローガンであり、多くの企業がクラウド移行を推進してきた。オンプレミス時代には数年がかりであった新システムの導入が、クラウド時代には数週間で立ち上がる。この圧倒的な「俊敏性」こそが、クラウドがもたらした最大の価値であった。 しかし、単一のクラウドに全面的に依存すれば、そのサービスで発生した障害、突然の価格改定、あるいはサービス仕様の変更といった影響を、回避する術なく受け入れなければならない。2021年9月に発生したAWS東京リージョン関連のDirect Connect障害では、約6時間にわたり国内の広範なサービスに影響が及んだ。また、同年、Peach Aviationが経験した予約システム障害も、単一のシステム依存のリスクを象徴する出来事であった。開発元が「マルウェア感染」を原因と公表し、復旧までに数日を要したこのトラブルでは、航空券の購入や変更手続きが全面的に停止し、多くの利用者に混乱をもたらした。 こうしたリスクを回避し、また各クラウドの「良いとこ取り」をするために、企業がマルチクラウド戦略を採用するのは合理的な判断である。事実、Flexeraの2024年のレポートによれば、世界の企業の89%がすでにマルチクラウド戦略を採用しているという。しかし、この急速な普及の裏側で、企業側の「統治(ガバナンス)」は全く追いついていないのが実情だ。 アイデンティティとアクセス管理(IAM)、システムの監視、各国のデータ規制への対応、そしてコスト管理。複数のクラウドを組み合わせることは、単なる足し算ではなく、組み合わせの数に応じて複雑性が爆発的に増加することを意味する。マルチクラウドという合理的な選択は、同時に「統治困難性」というパンドラの箱を開けてしまったのである。この深刻な問題はまず、目に見えないインフラ層、すなわちネットワーク構成の迷路から顕在化し始めている。 接続と権限の迷宮:技術的負債化するインフラ マルチクラウド戦略が直面する第一の壁は、ネットワークである。クラウドが一種類であれば、設計は比較的シンプルだ。VPC(AWSの仮想プライベートクラウド)やVNet(Azureの仮想ネットワーク)といった、そのクラウド内部のネットワーク設計に集中すればよかった。しかし、利用するクラウドが二つ、三つと増えた瞬間、考慮すべき接続経路は指数関数的に増加する。 例えば、従来のオンプレミス環境とAWS、Azureを組み合わせて利用するケースを考えてみよう。最低でも「オンプレミスからAWSへ」「オンプレミスからAzureへ」、そして「AWSとAzure間」という3つの主要な接続経路が発生する。さらに、可用性や地域性を考慮してリージョンを跨いだ設計になれば、経路はその倍、さらに倍へと膨れ上がっていく。 問題は経路の数だけではない。マルチクラウド環境では、クラウド間の通信が、各クラウドが定義する仮想ネットワークの境界を必ず跨ぐことになる。これは、同一クラウド内部での通信(いわゆる東西トラフィック)と比較して、遅延や帯域設計上の制約が格段に表面化しやすいことを意味する。オンプレミスとの専用線接続(AWS Direct ConnectやAzure ExpressRouteなど)や、事業者間のピアリングを経由する構成では、各プロバイダーが提供するスループットの上限、SLA(品質保証)の基準、さらには監視・計測の粒度までがバラバラである。 平時には問題なくとも、ピーク時の分析処理や夜間の大規模なバッチ転送などで、突如としてボトルネックが顕在化する。そして、障害が発生した際、この複雑なネットワーク構成が原因特定の遅れに直結する。国内の金融機関でも、北國銀行がAzure上に主要システムを移行する「フルクラウド化」を推進し、さらに次期勘定系システムではAzureとGCPを併用するマルチクラウド方針を掲げるなど、先進的な取り組みが進んでいる。しかし、こうした分野では特に、規制対応や可用性設計における監査可能性の担保が、ネットワークの複雑性を背景に極めて重い課題となっている。 そして、このネットワークという迷路以上に深刻な「最大の落とし穴」と指摘されるのが、IAM(アイデンティティとアクセス管理)である。AWS IAM、Microsoft Entra ID(旧Azure Active Directory)、GCP IAMは、それぞれが異なる思想と仕様に基づいて設計されており、これらを完全に統一されたポリシーで運用することは事実上不可能に近い。 最も頻発し、かつ危険な問題が「幽霊アカウント」の残存である。人事異動、プロジェクトの終了、あるいは外部委託先の契約満了に伴って、本来であれば即座に削除されるべきアカウントが、複雑化した管理の隙間で見落とされてしまう。監査の段階になって初めて、数ヶ月前に退職した社員のアカウントが、依然として重要なデータへのアクセス権を持ったまま放置されていた、といった事態が発覚するケースは珍しくない。 これは単なる管理上の不手際では済まされない。権限が残存したアカウントは、内部不正の温床となるだけでなく、外部からの攻撃者にとって格好の侵入口となり、大規模な情報漏洩を引き起こす致命的なリスクとなる。Flexeraの調査でも、マルチクラウドの普及は進む一方で、セキュリティの統合や運用成熟度は低い水準にとどまっていることが示されている。特に厳格な統制が求められる金融機関において、監査でIAMの統制不備が繰り返し問題視されている現実は、この課題の根深さを物語っている。 データ主権とAI規制:グローバル化が強制するシステムの分断 マルチクラウド化の波は、企業の積極的な戦略選択によってのみ進んでいるわけではない。むしろ、グローバルに事業を展開する企業にとっては、各国のデータ規制が「多国籍マルチクラウド体制」の採用を事実上強制するという側面が強まっている。 EU(欧州連合)の一般データ保護規則(GDPR)は、データの域内保存を絶対的に義務づけてはいないものの、EU域外へのデータ移転には標準契約条項(SCC)の締結など、極めて厳格な要件を課している。一方で、米国のCLOUD Act(海外データ適法利用明確化法)は、米国企業に対して、データが国外に保存されていても米国法に基づきその開示を命じ得る枠組みを定めている。さらに中国では、個人情報保護法(PIPL)やデータセキュリティ法がデータの国外持ち出しを厳しく制限し、複雑な手続きを要求する。日本もまた、2022年の改正個人情報保護法で、越境移転時の透明性確保を義務化するなど、データガバナンスへの要求を強めている。 この結果、グローバル企業は「EU域内のデータはEUリージョンのクラウドへ」「米国のデータは米国クラウドへ」「中国のデータは中国国内のクラウドへ」といった形で、各国の規制(データ主権)に対応するために、意図せずして複雑なマルチクラウド体制を構築せざるを得なくなっている。 もちろん、企業側も手をこまねいているわけではない。Snowflakeのように、AWS、Azure、GCPの3大クラウドすべてに対応したSaaS型データ基盤を活用し、物理的に分断されてしまったデータを論理的に統合・分析しようとする試みは活発だ。しかし、国ごとに異なる規制要件をすべて満たし、コンプライアンスを維持しながら、データを横断的に扱うことは容易ではない。規制とマルチクラウドの複雑性が絡み合った、新たな統治課題がここに浮き彫りになっている。 そして今、この複雑なデータ分断の構造に、生成AIや機械学習という新たなレイヤーが重ねられようとしている。AIの導入において、大規模なモデル学習と、それを活用した推論(サービス提供)を、それぞれ異なるクラウドで実行する試みは、一見すると効率的に映る。学習には潤沢なGPUリソースを持つクラウドを選び、推論は顧客に近いリージョンや低コストなクラウドで実行する、という考え方だ。 だが現実には、この構成が「監査対応」の難易度を劇的に引き上げる。学習データがどのクラウドからどのクラウドへ移動し、どのモデルがどのデータで学習され、その推論結果がどの規制に準拠しているのか。この監査証跡を、複数のクラウドを跨いで一貫性を保ったまま管理することは極めて困難である。製薬大手のノバルティスがAWSやMicrosoftとの協業で段階的なAI導入を進めている事例や、国内の製造業で同様の構成が試みられている動向からも、この「マルチクラウド特有の監査証跡管理」が共通の課題となりつつあることがわかる。加えて、2024年8月に発効したEUのAI法など、データだけでなくAIそのものへの規制が本格化する中で、この統治の困難性は増す一方である。 ブラックボックス化する現場:監視の穴と見えざるコスト 統治困難性がもたらす具体的な帰結は、まず「障害対応の遅延」という形で現場を直撃する。障害が発生した際に最も重要なのは、迅速な原因の特定と切り分けである。しかし、マルチクラウド環境では、この初動が格段に難しくなる。 なぜなら、Amazon CloudWatch、Azure Monitor、Google Cloud Operations Suiteといった各クラウドが標準で提供する監視基盤は、当然ながらそれぞれのクラウドに最適化されており、相互に分断されているからだ。収集されるログの形式、データの粒度、監視のインターフェースはすべて異なる。障害発生の通報を受け、IT担当者が複数の管理コンソールを同時に開き、形式の違うログデータを突き合わせ、相関関係を探る。単一クラウドであれば数分で特定できたはずの原因が、この「監視の分断」によって何時間も見えなくなる。 DatadogやNew Relicといった、マルチクラウドを一元的に監視できるサードパーティーツールが市場を拡大している背景には、まさにこの構造的な課題がある。しかし、ツールを導入したとしても、各クラウドの根本的な仕様の違いや、ネットワークの複雑な経路すべてを完全に可視化できるわけではなく、「監視の穴」が残存するリスクは常につきまとう。 こうした監視や障害対応の困難さは、単なる技術的な課題にとどまらず、やがて経営を圧迫する「見えざるコスト」となって跳ね返ってくる。コスト管理(FinOps)の複雑化である。CPU時間、ストレージ利用料、APIコール回数、そして特に高額になりがちなクラウド間のデータ転送料。これら課金体系はクラウドごとに全く異なり、複雑に絡み合う。 請求書のフォーマットすら統一されていないため、IT部門は毎月、異なる形式の請求書を読み解き、どの部門がどれだけのコストを発生させているのかを把握するだけで膨大な工数を費やすことになる。結果としてコストの最適化は進まず、予算超過が常態化する。HashiCorpが実施した調査では、実に91%の企業がクラウドの無駄な支出を認識していると回答し、さらに64%が「人材不足」を最大の障壁と挙げている。複雑化する運用に対応できるスキルセットを持った人材は圧倒的に不足しており、現場は疲弊している。 Synergy ResearchやOmdiaの調査によれば、クラウドインフラ市場は依然として年間20%を超える高い成長を続けている。この市場全体の拡大は、皮肉なことに、各クラウドの課金体系や監査要件の「差異」を企業組織の内部にさらに深く浸透させ、統治困難性の“母数”そのものを押し広げている。 このマルチクラウドがもたらす統治課題は、すべての産業に共通する一方で、その“顔つき”は業種ごとに異なる形で現れている。 最も厳格な要件が課される金融業界では、決済や市場接続におけるミリ秒単位の低遅延と、24時間365日の高可用性、そして取引記録の完全な監査証跡が同時に求められる。このため、オンプレミスや国内クラウドを主軸にしつつ、AIを用いた不正検知やリスクモデル計算のみを外部クラウドで行うといった二層構造が見られるが、ここでの課題は「速さと証跡」という二律背反の同期である。 製造業では、サプライチェーン全体の最適化がテーマとなる。生産ラインのデータ(OT)はエッジ側で即時処理し、設計や物流のデータ(IT)はクラウドで統合する。この際、ティア1からティアnに至る多数の取引先や外部委託がシステムにアクセスするため、クラウドを跨いだ権限管理の不備がセキュリティ上の重大な弱点となりやすい。 公共セクターでは、日本のガバメントクラウドが示すように、継続性と説明責任が最重要視される。複数のクラウドサービスを前提とした設計が求められるため、システムが特定のクラウドにロックインされない「可搬性」や「監査性」の確保が主要な課題となる。 小売業界では、顧客行動の即時分析と販促の即応性が競争力を決める。レコメンドAIや在庫連携など、業務機能単位で最適なクラウドやSaaSを選ぶため、結果的にマルチクラウド化が進む。ここでは障害発生時に、トランザクションのどの部分がどのクラウド層に起因するのかを追跡できなくなる問題が深刻であり、統合的なサービスレベル目標(SLO)管理が求められる。 また、教育・研究分野では、研究室単位や助成金ごとに利用するクラウドが異なり、事務系システムはMicrosoft

もはやクラウドは、現代の企業活動において不可逆的なインフラとなった。AWS(アマゾン ウェブ サービス)、Microsoft Azure、Google Cloud(GCP)の3大プラットフォームが市場の大部分を占める中、世界中の企業がその上でビジネスを構築している。日本においても「脱オンプレミス」は長年のスローガンであり、多くの企業がクラウド移行を推進してきた。オンプレミス時代には数年がかりであった新システムの導入が、クラウド時代には数週間で立ち上がる。この圧倒的な「俊敏性」こそが、クラウドがもたらした最大の価値であった。

しかし、単一のクラウドに全面的に依存すれば、そのサービスで発生した障害、突然の価格改定、あるいはサービス仕様の変更といった影響を、回避する術なく受け入れなければならない。2021年9月に発生したAWS東京リージョン関連のDirect Connect障害では、約6時間にわたり国内の広範なサービスに影響が及んだ。また、同年、Peach Aviationが経験した予約システム障害も、単一のシステム依存のリスクを象徴する出来事であった。開発元が「マルウェア感染」を原因と公表し、復旧までに数日を要したこのトラブルでは、航空券の購入や変更手続きが全面的に停止し、多くの利用者に混乱をもたらした。

こうしたリスクを回避し、また各クラウドの「良いとこ取り」をするために、企業がマルチクラウド戦略を採用するのは合理的な判断である。事実、Flexeraの2024年のレポートによれば、世界の企業の89%がすでにマルチクラウド戦略を採用しているという。しかし、この急速な普及の裏側で、企業側の「統治(ガバナンス)」は全く追いついていないのが実情だ。

アイデンティティとアクセス管理(IAM)、システムの監視、各国のデータ規制への対応、そしてコスト管理。複数のクラウドを組み合わせることは、単なる足し算ではなく、組み合わせの数に応じて複雑性が爆発的に増加することを意味する。マルチクラウドという合理的な選択は、同時に「統治困難性」というパンドラの箱を開けてしまったのである。この深刻な問題はまず、目に見えないインフラ層、すなわちネットワーク構成の迷路から顕在化し始めている。

接続と権限の迷宮:技術的負債化するインフラ

マルチクラウド戦略が直面する第一の壁は、ネットワークである。クラウドが一種類であれば、設計は比較的シンプルだ。VPC(AWSの仮想プライベートクラウド)やVNet(Azureの仮想ネットワーク)といった、そのクラウド内部のネットワーク設計に集中すればよかった。しかし、利用するクラウドが二つ、三つと増えた瞬間、考慮すべき接続経路は指数関数的に増加する。

例えば、従来のオンプレミス環境とAWS、Azureを組み合わせて利用するケースを考えてみよう。最低でも「オンプレミスからAWSへ」「オンプレミスからAzureへ」、そして「AWSとAzure間」という3つの主要な接続経路が発生する。さらに、可用性や地域性を考慮してリージョンを跨いだ設計になれば、経路はその倍、さらに倍へと膨れ上がっていく。

問題は経路の数だけではない。マルチクラウド環境では、クラウド間の通信が、各クラウドが定義する仮想ネットワークの境界を必ず跨ぐことになる。これは、同一クラウド内部での通信(いわゆる東西トラフィック)と比較して、遅延や帯域設計上の制約が格段に表面化しやすいことを意味する。オンプレミスとの専用線接続(AWS Direct ConnectやAzure ExpressRouteなど)や、事業者間のピアリングを経由する構成では、各プロバイダーが提供するスループットの上限、SLA(品質保証)の基準、さらには監視・計測の粒度までがバラバラである。

平時には問題なくとも、ピーク時の分析処理や夜間の大規模なバッチ転送などで、突如としてボトルネックが顕在化する。そして、障害が発生した際、この複雑なネットワーク構成が原因特定の遅れに直結する。国内の金融機関でも、北國銀行がAzure上に主要システムを移行する「フルクラウド化」を推進し、さらに次期勘定系システムではAzureとGCPを併用するマルチクラウド方針を掲げるなど、先進的な取り組みが進んでいる。しかし、こうした分野では特に、規制対応や可用性設計における監査可能性の担保が、ネットワークの複雑性を背景に極めて重い課題となっている。

そして、このネットワークという迷路以上に深刻な「最大の落とし穴」と指摘されるのが、IAM(アイデンティティとアクセス管理)である。AWS IAM、Microsoft Entra ID(旧Azure Active Directory)、GCP IAMは、それぞれが異なる思想と仕様に基づいて設計されており、これらを完全に統一されたポリシーで運用することは事実上不可能に近い。

最も頻発し、かつ危険な問題が「幽霊アカウント」の残存である。人事異動、プロジェクトの終了、あるいは外部委託先の契約満了に伴って、本来であれば即座に削除されるべきアカウントが、複雑化した管理の隙間で見落とされてしまう。監査の段階になって初めて、数ヶ月前に退職した社員のアカウントが、依然として重要なデータへのアクセス権を持ったまま放置されていた、といった事態が発覚するケースは珍しくない。

これは単なる管理上の不手際では済まされない。権限が残存したアカウントは、内部不正の温床となるだけでなく、外部からの攻撃者にとって格好の侵入口となり、大規模な情報漏洩を引き起こす致命的なリスクとなる。Flexeraの調査でも、マルチクラウドの普及は進む一方で、セキュリティの統合や運用成熟度は低い水準にとどまっていることが示されている。特に厳格な統制が求められる金融機関において、監査でIAMの統制不備が繰り返し問題視されている現実は、この課題の根深さを物語っている。

データ主権とAI規制:グローバル化が強制するシステムの分断

マルチクラウド化の波は、企業の積極的な戦略選択によってのみ進んでいるわけではない。むしろ、グローバルに事業を展開する企業にとっては、各国のデータ規制が「多国籍マルチクラウド体制」の採用を事実上強制するという側面が強まっている。

EU(欧州連合)の一般データ保護規則(GDPR)は、データの域内保存を絶対的に義務づけてはいないものの、EU域外へのデータ移転には標準契約条項(SCC)の締結など、極めて厳格な要件を課している。一方で、米国のCLOUD Act(海外データ適法利用明確化法)は、米国企業に対して、データが国外に保存されていても米国法に基づきその開示を命じ得る枠組みを定めている。さらに中国では、個人情報保護法(PIPL)やデータセキュリティ法がデータの国外持ち出しを厳しく制限し、複雑な手続きを要求する。日本もまた、2022年の改正個人情報保護法で、越境移転時の透明性確保を義務化するなど、データガバナンスへの要求を強めている。

この結果、グローバル企業は「EU域内のデータはEUリージョンのクラウドへ」「米国のデータは米国クラウドへ」「中国のデータは中国国内のクラウドへ」といった形で、各国の規制(データ主権)に対応するために、意図せずして複雑なマルチクラウド体制を構築せざるを得なくなっている。

もちろん、企業側も手をこまねいているわけではない。Snowflakeのように、AWS、Azure、GCPの3大クラウドすべてに対応したSaaS型データ基盤を活用し、物理的に分断されてしまったデータを論理的に統合・分析しようとする試みは活発だ。しかし、国ごとに異なる規制要件をすべて満たし、コンプライアンスを維持しながら、データを横断的に扱うことは容易ではない。規制とマルチクラウドの複雑性が絡み合った、新たな統治課題がここに浮き彫りになっている。

そして今、この複雑なデータ分断の構造に、生成AIや機械学習という新たなレイヤーが重ねられようとしている。AIの導入において、大規模なモデル学習と、それを活用した推論(サービス提供)を、それぞれ異なるクラウドで実行する試みは、一見すると効率的に映る。学習には潤沢なGPUリソースを持つクラウドを選び、推論は顧客に近いリージョンや低コストなクラウドで実行する、という考え方だ。

だが現実には、この構成が「監査対応」の難易度を劇的に引き上げる。学習データがどのクラウドからどのクラウドへ移動し、どのモデルがどのデータで学習され、その推論結果がどの規制に準拠しているのか。この監査証跡を、複数のクラウドを跨いで一貫性を保ったまま管理することは極めて困難である。製薬大手のノバルティスがAWSやMicrosoftとの協業で段階的なAI導入を進めている事例や、国内の製造業で同様の構成が試みられている動向からも、この「マルチクラウド特有の監査証跡管理」が共通の課題となりつつあることがわかる。加えて、2024年8月に発効したEUのAI法など、データだけでなくAIそのものへの規制が本格化する中で、この統治の困難性は増す一方である。

ブラックボックス化する現場:監視の穴と見えざるコスト

統治困難性がもたらす具体的な帰結は、まず「障害対応の遅延」という形で現場を直撃する。障害が発生した際に最も重要なのは、迅速な原因の特定と切り分けである。しかし、マルチクラウド環境では、この初動が格段に難しくなる。

なぜなら、Amazon CloudWatch、Azure Monitor、Google Cloud Operations Suiteといった各クラウドが標準で提供する監視基盤は、当然ながらそれぞれのクラウドに最適化されており、相互に分断されているからだ。収集されるログの形式、データの粒度、監視のインターフェースはすべて異なる。障害発生の通報を受け、IT担当者が複数の管理コンソールを同時に開き、形式の違うログデータを突き合わせ、相関関係を探る。単一クラウドであれば数分で特定できたはずの原因が、この「監視の分断」によって何時間も見えなくなる。

DatadogやNew Relicといった、マルチクラウドを一元的に監視できるサードパーティーツールが市場を拡大している背景には、まさにこの構造的な課題がある。しかし、ツールを導入したとしても、各クラウドの根本的な仕様の違いや、ネットワークの複雑な経路すべてを完全に可視化できるわけではなく、「監視の穴」が残存するリスクは常につきまとう。

こうした監視や障害対応の困難さは、単なる技術的な課題にとどまらず、やがて経営を圧迫する「見えざるコスト」となって跳ね返ってくる。コスト管理(FinOps)の複雑化である。CPU時間、ストレージ利用料、APIコール回数、そして特に高額になりがちなクラウド間のデータ転送料。これら課金体系はクラウドごとに全く異なり、複雑に絡み合う。

請求書のフォーマットすら統一されていないため、IT部門は毎月、異なる形式の請求書を読み解き、どの部門がどれだけのコストを発生させているのかを把握するだけで膨大な工数を費やすことになる。結果としてコストの最適化は進まず、予算超過が常態化する。HashiCorpが実施した調査では、実に91%の企業がクラウドの無駄な支出を認識していると回答し、さらに64%が「人材不足」を最大の障壁と挙げている。複雑化する運用に対応できるスキルセットを持った人材は圧倒的に不足しており、現場は疲弊している。

Synergy ResearchやOmdiaの調査によれば、クラウドインフラ市場は依然として年間20%を超える高い成長を続けている。この市場全体の拡大は、皮肉なことに、各クラウドの課金体系や監査要件の「差異」を企業組織の内部にさらに深く浸透させ、統治困難性の“母数”そのものを押し広げている。

このマルチクラウドがもたらす統治課題は、すべての産業に共通する一方で、その“顔つき”は業種ごとに異なる形で現れている。

最も厳格な要件が課される金融業界では、決済や市場接続におけるミリ秒単位の低遅延と、24時間365日の高可用性、そして取引記録の完全な監査証跡が同時に求められる。このため、オンプレミスや国内クラウドを主軸にしつつ、AIを用いた不正検知やリスクモデル計算のみを外部クラウドで行うといった二層構造が見られるが、ここでの課題は「速さと証跡」という二律背反の同期である。

製造業では、サプライチェーン全体の最適化がテーマとなる。生産ラインのデータ(OT)はエッジ側で即時処理し、設計や物流のデータ(IT)はクラウドで統合する。この際、ティア1からティアnに至る多数の取引先や外部委託がシステムにアクセスするため、クラウドを跨いだ権限管理の不備がセキュリティ上の重大な弱点となりやすい。

公共セクターでは、日本のガバメントクラウドが示すように、継続性と説明責任が最重要視される。複数のクラウドサービスを前提とした設計が求められるため、システムが特定のクラウドにロックインされない「可搬性」や「監査性」の確保が主要な課題となる。

小売業界では、顧客行動の即時分析と販促の即応性が競争力を決める。レコメンドAIや在庫連携など、業務機能単位で最適なクラウドやSaaSを選ぶため、結果的にマルチクラウド化が進む。ここでは障害発生時に、トランザクションのどの部分がどのクラウド層に起因するのかを追跡できなくなる問題が深刻であり、統合的なサービスレベル目標(SLO)管理が求められる。

また、教育・研究分野では、研究室単位や助成金ごとに利用するクラウドが異なり、事務系システムはMicrosoft 365、研究用AIはGCP、論文データ共有はAWSといった「意図せぬマルチクラウド」が常態化しやすい。ここでは、入れ替わりの激しい研究者や学生のアイデンティティをいかにライフサイクル管理するかが、コンプライアンスの鍵を握っている。

金融は規制適合性、製造はサプライチェーンの透明性、公共はデジタル主権。産業ごとに直面する課題は異なっていても、その根底にあるのは「複雑性の統治能力が、そのまま企業の競争力と相関している」という共通の現実である。

マルチクラウドは、リスクを分散し俊敏性を高める「資産」にもなれば、利便性を求めて無秩序に拡張した結果、やがて制御不能な「負債」へと転じる危険もはらんでいる。未来を決めるのは、どの技術を導入したか、ではない。その技術が必然的にもたらす複雑性を、持続的に統治できる組織体制と能力こそが、マルチクラウド時代における企業の真の競争力を左右しつつある。…
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対談:「生成AIのセキュリティガバナンス」──法規制、リスク、そして国際動向

生成AI規制の現在地──国内外の法制度と企業対応 ―― まずは、生成AIに関する法規制の現状について伺います。日本国内ではどのような規制があるのでしょうか。 柴山 AIに関する規制は大きく分けて2つあります。1つはAIを直接対象とした包括的な規制、もう1つは既存の個別法による規制です。前者の代表例としてはEUの「AI Act(エーアイ・アクト)」があります。これはハードロー、つまり法的義務を課す厳格な規制です。一方、アメリカは連邦レベルではAIに対する明確な法規制はなく、むしろ推進の方向です。日本はその中間というか、独自路線を取っています。今年、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」が制定されました。これは事業者への協力義務を課していますが、協力しなかったとしても罰則はありません。つまり、法律はあるが、ソフトローに近い緩やかな義務を課す形です。 ―― 個別法による規制についても教えてください。 柴山 生成AIを使った結果、名誉毀損や著作権侵害等が起きれば、当然ながら既存の法律が適用されます。特に重要なのは「個人情報保護法」と「著作権法」です。これらは生成AIの入力・出力両面でリスク管理の要となります。 ―― 企業が生成AIを導入する際、法的リスクとして特に留意すべき点は何でしょうか。 柴山 まず「入力」の段階では、個人情報や機密情報をAIに渡してよいかが問題になります。秘密保持義務の対象となる情報を入力してしまうと契約違反につながる可能性がありますし、個人データを入力すると、法令違反になるケースがあります。「出力」に関しては、誤情報の生成や著作権侵害が懸念されます。例えば、生成された画像やコードが既存の著作物に酷似していた場合、著作権侵害として損害賠償の対象となるリスクがあります。 ―― 具体的な対応策はありますか。 柴山 まず、信頼できるサービスを選ぶことが重要です。個人情報保護法の観点では、個人データを入力する場合、個人データを提供したとされる場合があり、その場合は原則として本人同意が必要ですが、安全管理措置が講じられている等一定の要件を満たせば、同意不要な場合もあります。利用規約やData Processing Addendum(DPA)と呼ばれるデータ取り扱いの合意書等を確認することが大切です。出力に関しては、著作権的に安全なデータで学習されたモデルを選ぶ、プロンプト(指示文)設計に注意する、特定の著作物を模倣しないなどの工夫が求められます。 ―― データベースの所在によってもリスクは変わりますか。 柴山 はい。国によってデータ保護法制の内容は異なります。例えば、中国にデータが渡ると、現地法により政府に情報提供が義務付けられる可能性があります。DeepSeekの事例では、個人情報保護委員会が注意喚起を行いました(※)。民主主義国とは異なる法体系を持つ国では、特にデータの越境移転に慎重になる必要があります。 (※参考:個人情報保護委員会事務局「DeepSeekに関する情報提供」(令和7年2月3日(令和7年3月5日更新)https://www.ppc.go.jp/news/careful_information/250203_alert_deepseek/) ―― 自社でデータベースを構築することでリスクを回避できますか。 柴山 可能です。コード等が公開されているモデルであれば、自社環境に持ち込んで運用することで、外部へのデータ流出リスクを抑えられます。ただし、クラウド型サービスの方がセキュリティ等の面で優れている場合もあり、データ管理体制を十分に確認したうえで、クラウド型サービスを利用する方が良い場合も多いでしょう。 ―― 海外の規制動向は、日本にどのような影響を与えるでしょうか。 柴山 EUのAI Act は、EU圏でビジネスをする企業には直接適用されます。さらに、グローバルな標準形成にも影響を与えるため、EUで事業を展開していない企業にも間接的な影響があります。アメリカはソフトロー的なアプローチですが、韓国はEUに追随する形でAI基本法を制定しました。中国は独自のハードローを採用していますが、EUとは毛色が異なります。世界的な潮流はまだ定まっていない状況です。 ―― AIガバナンスに関して、国際的な基準との整合性はどう図るべきでしょうか。 柴山 たとえばGDPR(General Data Protection Regulation、EU一般データ保護規則)のように、EUが打ち出す規制は「ブリュッセル効果」と呼ばれ、他国にも影響を与えます。AI Act もその延長線上にあり、日本企業も無視できません。また、投資家がAIガバナンス体制の整備を求めるという動きもありますので、今後、企業にAIガバナンス体制構築を求める動きは加速していくでしょう。 飯田 グローバルに展開する企業は、地域ごとの法的・倫理的要請を無視できません。結果的に、厳しい基準に合わせざるを得ない。緩い基準に合わせると、他地域では受け入れられないという現実があります。 柴山 日本のルールがそのままグローバルスタンダードになることはないでしょう。ただ、著作権法などでは世界に先駆けた規制緩和を行ってきた実績もあります。ルール形成のスピード感では、日本も一定の存在感を示しています。 生成AIとサイバーセキュリティ──漏洩・誤情報・著作権リスクとサイバー攻撃への備え ―― 生成AIにおけるセキュリティリスクについて、飯田さんはいかがでしょうか。 飯田 典型的なリスクは3つあります。1つ目は情報漏洩、2つ目はハルシネーション(誤情報の生成)、3つ目は著作権侵害です。これらはすべて、学習データの質と管理に起因します。 例えば、学習データに個人情報や機密情報が含まれていると、それがアウトプットに現れる可能性があります。企業独自の情報を活用する場合は、閉じた環境でモデルを構築することが望ましいです。 ―― パブリックなサービスを使う場合の注意点は? 飯田 誰でも使えるサービスに企業の機密情報を入力すると、意図せず漏洩するリスクがあります。そのため、パブリックなモデルを使う場合は、入力データの選定に細心の注意を払う必要があります。 ―― AIはサイバー攻撃の新たな標的になる可能性はありますか。 飯田 AIが新たな攻撃対象になるという意味では、確かにリスクは増えています。たとえば、企業が独自に構築したLLM(大規模言語モデル)に対して、外部から不正アクセスを試みる攻撃が発生する可能性もあります。ただし、これはAIに限った話ではなく、従来のサーバーやクラウド環境と同様に、適切なセキュリティ対策を講じていれば、一定の防御は可能です。現実には、サイバー攻撃の被害に遭っている企業は少なくありません。だからこそ、AIを導入するかどうかにかかわらず、DXの進展に伴って情報セキュリティ全体を強化する必要があります。AIだから特別に強化するというよりも、AIを含めた全体の情報資産を守るという視点が重要です。 ―― つまり、AIの導入によって攻撃対象が増えるという見方もできますね。 飯田 そうですね。犯罪者の視点から見れば、AIは新たな「盗みどころ」になる可能性があります。今まで別の経路から盗まなければならなかった情報が、AIの学習データや出力を通じて取得できるようになるとすれば、それは攻撃対象の拡大です。ただ、この議論はクラウドが普及した時期の議論と非常に似ています。クラウド導入時も「外部にデータを預けるのは危険だ」という声がありましたが、今では多くの企業がクラウドを活用しています。AIも同様で、リスクはあるが、適切な対策を講じれば十分に活用できる技術です。 社内ガバナンスの設計──責任体制・アクセス制御・教育 ―― 生成AIの導入・運用において、企業内での責任分担はどう整理すべきでしょうか。 飯田 AIは法務・人事・技術など多岐にわたる領域に関わるため、1部門で完結するのは難しいです。責任者を明確に任命し、窓口となる部門を設けて、他部門と連携する体制が現実的です。 ―― 日本企業では「サイロ化」が課題になりがちですが、どう対応すべきでしょうか。 飯田 「Chief AI Officer(CAIO)」のような横断的な責任者を設け、その人に権限を与えることで、部門間の連携を促進できます。デジタル庁の「行政の進化と革新のための生成AIの調達・利活用に係るガイドライン」も参考になります。各府庁にCAIOを置き、リスク評価シートを用いてAIの導入判断を行い、所管のデジタル庁の相談窓口に相談がいくようになっています。また、有識者による助言体制も整えています。これを企業に応用することで、実効性のあるガバナンスが可能になります。 ―― AIモデルの学習において、機密情報をどのように扱うべきですか。 飯田 業務効率化を目的とするなら、企業が収集した顧客情報をAIに活用する場面は避けられません。ただし、その情報が「学習用データ」として使えるかどうかは、収集時の利用目的と照らし合わせて確認する必要があります。ユーザーに提示した目的と異なる使い方をすれば、法的・倫理的な問題が生じます。例えば、名前やメールアドレス、生年月日などの個人情報を学習に使いたい場合、その情報が「学習目的」で収集されたものであるかを確認する必要があります。また、人事情報──給与や評価など──を使う場合も、部門間での情報共有に制限があるため、アクセスコントロールが不可欠です。 ―― 情報の重要度に応じたラベリングも必要ですね。 飯田 情報の機密性に応じて、どの部門・職責に開示すべきかを定義し、モデルごとにアクセス制限を設ける。すべての情報を1つのモデルに学習させるのではなく、用途や対象者に応じてモデルを分ける工夫が求められます。 ―― 社内で生成AIを導入する際、セキュリティポリシーや制御設計はどうあるべきでしょうか。 飯田 まずは「誰が、どの情報に、どこまでアクセスできるか」を明確にすることが重要です。導入前に、どの部署がどのような目的でAIを使うのか、どんなリスクがあるのかを整理し、それに応じたポリシーで設計する必要があります。 ―― 社内モデルとパブリックモデルの使い分けも重要ですね。 飯田 そうです。社内の機密情報を活用するなら、独自のAIモデルを構築すべきです。一方、一般的な情報収集にはパブリックなサービスを使う。用途に応じたモデル選定とポリシーの明確化が求められます。

生成AI規制の現在地──国内外の法制度と企業対応

―― まずは、生成AIに関する法規制の現状について伺います。日本国内ではどのような規制があるのでしょうか。

柴山 AIに関する規制は大きく分けて2つあります。1つはAIを直接対象とした包括的な規制、もう1つは既存の個別法による規制です。前者の代表例としてはEUの「AI Act(エーアイ・アクト)」があります。これはハードロー、つまり法的義務を課す厳格な規制です。一方、アメリカは連邦レベルではAIに対する明確な法規制はなく、むしろ推進の方向です。日本はその中間というか、独自路線を取っています。今年、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」が制定されました。これは事業者への協力義務を課していますが、協力しなかったとしても罰則はありません。つまり、法律はあるが、ソフトローに近い緩やかな義務を課す形です。

―― 個別法による規制についても教えてください。

柴山 生成AIを使った結果、名誉毀損や著作権侵害等が起きれば、当然ながら既存の法律が適用されます。特に重要なのは「個人情報保護法」と「著作権法」です。これらは生成AIの入力・出力両面でリスク管理の要となります。

―― 企業が生成AIを導入する際、法的リスクとして特に留意すべき点は何でしょうか。

柴山 まず「入力」の段階では、個人情報や機密情報をAIに渡してよいかが問題になります。秘密保持義務の対象となる情報を入力してしまうと契約違反につながる可能性がありますし、個人データを入力すると、法令違反になるケースがあります。「出力」に関しては、誤情報の生成や著作権侵害が懸念されます。例えば、生成された画像やコードが既存の著作物に酷似していた場合、著作権侵害として損害賠償の対象となるリスクがあります。

―― 具体的な対応策はありますか。

柴山 まず、信頼できるサービスを選ぶことが重要です。個人情報保護法の観点では、個人データを入力する場合、個人データを提供したとされる場合があり、その場合は原則として本人同意が必要ですが、安全管理措置が講じられている等一定の要件を満たせば、同意不要な場合もあります。利用規約やData Processing Addendum(DPA)と呼ばれるデータ取り扱いの合意書等を確認することが大切です。出力に関しては、著作権的に安全なデータで学習されたモデルを選ぶ、プロンプト(指示文)設計に注意する、特定の著作物を模倣しないなどの工夫が求められます。

―― データベースの所在によってもリスクは変わりますか。

柴山 はい。国によってデータ保護法制の内容は異なります。例えば、中国にデータが渡ると、現地法により政府に情報提供が義務付けられる可能性があります。DeepSeekの事例では、個人情報保護委員会が注意喚起を行いました(※)。民主主義国とは異なる法体系を持つ国では、特にデータの越境移転に慎重になる必要があります。

(※参考:個人情報保護委員会事務局「DeepSeekに関する情報提供」(令和7年2月3日(令和7年3月5日更新)https://www.ppc.go.jp/news/careful_information/250203_alert_deepseek/)

―― 自社でデータベースを構築することでリスクを回避できますか。

柴山 可能です。コード等が公開されているモデルであれば、自社環境に持ち込んで運用することで、外部へのデータ流出リスクを抑えられます。ただし、クラウド型サービスの方がセキュリティ等の面で優れている場合もあり、データ管理体制を十分に確認したうえで、クラウド型サービスを利用する方が良い場合も多いでしょう。

―― 海外の規制動向は、日本にどのような影響を与えるでしょうか。

柴山 EUのAI Act は、EU圏でビジネスをする企業には直接適用されます。さらに、グローバルな標準形成にも影響を与えるため、EUで事業を展開していない企業にも間接的な影響があります。アメリカはソフトロー的なアプローチですが、韓国はEUに追随する形でAI基本法を制定しました。中国は独自のハードローを採用していますが、EUとは毛色が異なります。世界的な潮流はまだ定まっていない状況です。

―― AIガバナンスに関して、国際的な基準との整合性はどう図るべきでしょうか。

柴山 たとえばGDPR(General Data Protection Regulation、EU一般データ保護規則)のように、EUが打ち出す規制は「ブリュッセル効果」と呼ばれ、他国にも影響を与えます。AI Act もその延長線上にあり、日本企業も無視できません。また、投資家がAIガバナンス体制の整備を求めるという動きもありますので、今後、企業にAIガバナンス体制構築を求める動きは加速していくでしょう。

飯田 グローバルに展開する企業は、地域ごとの法的・倫理的要請を無視できません。結果的に、厳しい基準に合わせざるを得ない。緩い基準に合わせると、他地域では受け入れられないという現実があります。

柴山 日本のルールがそのままグローバルスタンダードになることはないでしょう。ただ、著作権法などでは世界に先駆けた規制緩和を行ってきた実績もあります。ルール形成のスピード感では、日本も一定の存在感を示しています。

生成AIとサイバーセキュリティ──漏洩・誤情報・著作権リスクとサイバー攻撃への備え

―― 生成AIにおけるセキュリティリスクについて、飯田さんはいかがでしょうか。

飯田 典型的なリスクは3つあります。1つ目は情報漏洩、2つ目はハルシネーション(誤情報の生成)、3つ目は著作権侵害です。これらはすべて、学習データの質と管理に起因します。

例えば、学習データに個人情報や機密情報が含まれていると、それがアウトプットに現れる可能性があります。企業独自の情報を活用する場合は、閉じた環境でモデルを構築することが望ましいです。

―― パブリックなサービスを使う場合の注意点は?

飯田 誰でも使えるサービスに企業の機密情報を入力すると、意図せず漏洩するリスクがあります。そのため、パブリックなモデルを使う場合は、入力データの選定に細心の注意を払う必要があります。

―― AIはサイバー攻撃の新たな標的になる可能性はありますか。

飯田 AIが新たな攻撃対象になるという意味では、確かにリスクは増えています。たとえば、企業が独自に構築したLLM(大規模言語モデル)に対して、外部から不正アクセスを試みる攻撃が発生する可能性もあります。ただし、これはAIに限った話ではなく、従来のサーバーやクラウド環境と同様に、適切なセキュリティ対策を講じていれば、一定の防御は可能です。現実には、サイバー攻撃の被害に遭っている企業は少なくありません。だからこそ、AIを導入するかどうかにかかわらず、DXの進展に伴って情報セキュリティ全体を強化する必要があります。AIだから特別に強化するというよりも、AIを含めた全体の情報資産を守るという視点が重要です。

―― つまり、AIの導入によって攻撃対象が増えるという見方もできますね。

飯田 そうですね。犯罪者の視点から見れば、AIは新たな「盗みどころ」になる可能性があります。今まで別の経路から盗まなければならなかった情報が、AIの学習データや出力を通じて取得できるようになるとすれば、それは攻撃対象の拡大です。ただ、この議論はクラウドが普及した時期の議論と非常に似ています。クラウド導入時も「外部にデータを預けるのは危険だ」という声がありましたが、今では多くの企業がクラウドを活用しています。AIも同様で、リスクはあるが、適切な対策を講じれば十分に活用できる技術です。

社内ガバナンスの設計──責任体制・アクセス制御・教育

―― 生成AIの導入・運用において、企業内での責任分担はどう整理すべきでしょうか。

飯田 AIは法務・人事・技術など多岐にわたる領域に関わるため、1部門で完結するのは難しいです。責任者を明確に任命し、窓口となる部門を設けて、他部門と連携する体制が現実的です。

―― 日本企業では「サイロ化」が課題になりがちですが、どう対応すべきでしょうか。

飯田 「Chief AI Officer(CAIO)」のような横断的な責任者を設け、その人に権限を与えることで、部門間の連携を促進できます。デジタル庁の「行政の進化と革新のための生成AIの調達・利活用に係るガイドライン」も参考になります。各府庁にCAIOを置き、リスク評価シートを用いてAIの導入判断を行い、所管のデジタル庁の相談窓口に相談がいくようになっています。また、有識者による助言体制も整えています。これを企業に応用することで、実効性のあるガバナンスが可能になります。

―― AIモデルの学習において、機密情報をどのように扱うべきですか。

飯田 業務効率化を目的とするなら、企業が収集した顧客情報をAIに活用する場面は避けられません。ただし、その情報が「学習用データ」として使えるかどうかは、収集時の利用目的と照らし合わせて確認する必要があります。ユーザーに提示した目的と異なる使い方をすれば、法的・倫理的な問題が生じます。例えば、名前やメールアドレス、生年月日などの個人情報を学習に使いたい場合、その情報が「学習目的」で収集されたものであるかを確認する必要があります。また、人事情報──給与や評価など──を使う場合も、部門間での情報共有に制限があるため、アクセスコントロールが不可欠です。

―― 情報の重要度に応じたラベリングも必要ですね。

飯田 情報の機密性に応じて、どの部門・職責に開示すべきかを定義し、モデルごとにアクセス制限を設ける。すべての情報を1つのモデルに学習させるのではなく、用途や対象者に応じてモデルを分ける工夫が求められます。

―― 社内で生成AIを導入する際、セキュリティポリシーや制御設計はどうあるべきでしょうか。

飯田 まずは「誰が、どの情報に、どこまでアクセスできるか」を明確にすることが重要です。導入前に、どの部署がどのような目的でAIを使うのか、どんなリスクがあるのかを整理し、それに応じたポリシーで設計する必要があります。

―― 社内モデルとパブリックモデルの使い分けも重要ですね。

飯田 そうです。社内の機密情報を活用するなら、独自のAIモデルを構築すべきです。一方、一般的な情報収集にはパブリックなサービスを使う。用途に応じたモデル選定とポリシーの明確化が求められます。

ベンダーとの契約──契約と交渉のポイント

―― 生成AIを自社に導入する場合、ベンダーとの契約上どんな点に注意すべきでしょうか。

柴山 生成AIを自社に導入する場合、SaaSのようなパッケージ型のサービスを導入する場合とベンダーに開発を委託して自社向けにカスタマイズする場合の2種類があります。前者は利用規約が固定されているため、規約を読み込んで、どこまでの情報を入力できるかを判断する必要があります。後者は交渉の余地があるため、権利の帰属、利用条件、データの取り扱いなどを明確にすることが重要です。

―― 自社のノウハウが漏れるリスクもありますね。

柴山 はい。渡したデータが別製品の開発等に転用される可能性もあるため、契約で利用範囲を明確に定めておくことが重要です。たとえば、開発委託の場合、提供したデータを使って作られたAIモデルが、他社サービスへの展開にあたっても利用されるような事態を避けるために、成果物の利用条件や権利帰属を契約書でしっかり規定しておく必要があります。

―― 実際に、データ提供した企業が自社の情報にアクセスできなくなるケースもあると聞きます。

柴山 契約時に利用条件を明確にしていなければ、いわゆるベンダーロックインと呼ばれる状況が起こることもあり得ます。AI開発においては、データの取り扱いと成果物の利用条件をセットで考えることが不可欠です。

―― 社内でAIを利用する場合には、社内のルールを決めておくことも重要でしょうか。

柴山 はい。ここまでに述べたような法的リスクに対応するには、最低限のルールを定めておくことが必要です。

飯田 加えて、ルールを策定しただけでは不十分で、それをどう社内に浸透させるかが課題になります。ポリシーを作っても、従業員がその内容を理解し、実践できなければ意味がありません。教育と技術的な補完策の両面から、セキュリティガバナンスを構築する必要があります。

柴山 法的な観点からも、教育は非常に重要です。たとえば「個人情報を入力しないでください」と言われても、何が個人情報かを理解していないと、誤って入力してしまうことがあります。自社の業務に即した具体例を示しながら、動画などで教育コンテンツを提供するのが有効です。

技術の進化と制度の遅れ──「前例なき意思決定」が問われる時代へ

―― 技術の進化に法制度が追いつかない場合、企業にはどのような対応が求められるのでしょうか。

柴山 リスクベースアプローチ(リスクの重要度に応じて対策を講じる考え方)が鍵です。法律が想定しておらず、前例もない状況で、自社でリスク評価をして意思決定できるかどうか。日本企業は前例を探しがちですが、今後は「前例がないからやらない」ではなく、「自社で判断する」力が問われます。

飯田 業界団体で「ここまではできる」という標準を作り、その上で企業が個別判断するという構造が理想です。そうすれば、現場の担当者にリスクを押し付けることなく、組織として意思決定ができます。

柴山 CIOやCAIOのような責任者を明確にし、ルールを定めることで、現場が安心して使える環境を整えることができます。

飯田 日本は労働人口の減少という構造的課題を抱えています。AIはその補完手段として不可欠な技術です。導入企業は今後さらに増えるでしょうし、一度使えば手放せなくなるほど便利です。

柴山 ガバナンスは抑止のためではなく、安全に、そしてポジティブに活用するための仕組みです。しり込みせず、前向きに使っていただきたいです。

飯田 セキュリティやガバナンスは「使わせないため」ではなく、「安心して使ってもらうため」に設計するものです。その前提が共有されれば、AI活用はより健全に広がっていくはずです。…
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